準備完了 |
研賜 |
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始めの何年間かは楷書のみを
書くときに筆使いに会わせて、大きな声を出していた。
筆を使う指の動きに会わせて、自然に行う呼吸。どうも楷書は太極拳へ、行書、草書は少林寺拳法へとつながる。
古典書法を習う順番は、含蓄がある。
点画の角に丸みを持たせることは、難しい。
銀行家の裕福な家庭に生まれた。 文化大革命時に、捨てられた伝統的な文化。 り先生も、その中にいた。いまの世はその延長。所詮、無理がある。
書はかって、為政者が学ぶべきものの一つであった。 唐太宗国がその価値に最も気づいていた。そして、伝説とともにその書法を理想化して残した。恐らく、国を運営する重みを感じつつ、よるべきすべとしていた。
り先生は、幾人にも師事し、断片的に残っていた古典書法を集積した。 書をする人たちの間では有名であったが、善し悪しをそのままの言葉で言うので煙たがられていた。師は、この点では、り先生と啓功氏の中間くらいのところで位置したいと言っていた。
目にした筆使いの神髄、光輝く宝物を見たような気がした。安易に教えないようにと言い残していた。 独学期間は赤子のなんごのような意味をもっていた。筆使いが宝物に見えたのはこのおかげ。
り先生の王羲之の臨書は、細部まで、気が入った書である。このレベルまで、真似ることは・・・ そう言えば、横画から縦画に移るところの形に関しては、強い調子で注意が飛んだことがある。り先生の思想を感じた。
楷書は、基本であり、応用でもある。まるであらゆる物を包み込む。 陰陽の思想もまた、古典書法から自然とあふれる。
り先生の教えるところはレベルが高すぎて、当時は十分理解できなかったと言っていた。
楷書に重点的に取り組んでいるが、何か、頭の中に断片的な言葉が浮かんできては、指先の感覚とつながってゆく。 そうか、これで、どうやら書の準備が完了したようだ。 さて、 丙戌如月
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