研賜

古典書法

since2002

 

 

 

 

 

 

 

23年目

 

 

 

2024年02月02日

 

今日から古典書法23年目である。書道について、発見というのか気づいたことがある。

書道、能の謡・仕舞のような芸事を行う時は特に丹田を意識することが多い。

したがって、というのかなんというのか、今であれば、丹田から出てくる力をそのまま筆に伝えて書をした方がよいのではということで試してみた。・・・

書が人格を持ち、自然に遊んでくれているような気がしないでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

22年目

 

 

 

2023年06月30日

 

久しぶりの更新になった。

世の中の動く方向を予め知り得ないかということで、調べてきた。

結局、聖書の予言が唯一つ当てになる、というところが結論だ。

聖書といっても、つい最近までまったく無縁に過ごしてきた。

根が技術者であるため、基本的には、設計が悪くて動かないものは、祈ってもなにをしても動かないので、神とか仏に無縁なところで生活している。

ただし、人であれ、物に対するものであれ、縁とか運については、なにか、理詰め以外の、自然の神というのかなんというのか、なにか大きなもののお陰によっているというようには感じている。

それを神様、とかいう言葉にしてしまうと、なにか感性に合わないところが出てきてしまうため、こんな風に理解したらどうだろうかという感じで、感性を聖書よりに合わせるようにして勉強し始めている。

救いのようなものを求めているということではないので、まずは精神的に至らないところを修正するのに良さそうだ。

宗教に興味があるというよりも、聖書の言葉に興味がある。

なお調べた範囲で実感できるところは、宗教上の争いというのは、聖書の言葉をそのまま信じる人と、それ以外の人との間の争いのことだ。カトリック教=キリスト教というイメージがあったのだが、カトリック教の教えは、根本的なところで聖書の言葉とは真反対である。カトリック教は、政治的な力、経済的な力とも結びついているので、宗教上の迫害は、聖書の言葉を信じている人に対してのものであることが多い。

聖書について知りたいのであれば、youtubeの、

https://www.youtube.com/@sostvjp

がお薦めだ。

 

フワクキュウチュウ

 

考えごとをしていると、思うようにならないことに対して煩いがちになる。良くないのは人を非難する気持ちがフツフツと泉のように湧いてくることだ。ただ、実際に、その人がいるその場の中にあって、行いを積みなさいということで、自分に言い聞かせるために造語した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

21年目

 

 

 

2022年07月06日

 

久しぶりの更新になった。

昨年の11月から、短歌と書を、教えていただき、散歩をして、景色を見て短歌をつくり、それを書にするというような形で書を続けている。

もともと、歩くのは好きで、散歩であれば、一日歩いても良い感じだ。今くらいの暑さなら、晴れの日でも、日陰、あるいは川沿いなどを歩くと風がさわやかに感じれらて快適だ。

 

1週間ほど前に、田舎に用事があり田舎に帰った際に、半日程度かけて、白水の阿弥陀堂及びその周辺の山路を歩いてきた。

次はその際に詠んだ歌だ。

・ふる郷の野山を訪ね歩きみて吾の好みの根を知り嬉し

・白水の蓮の花びら山々の包む浄土に阿弥陀堂立つ

 

特に、白水の阿弥陀堂は、周辺が山に囲まれていて、まるで蓮の花の中にいるように感じられとても惹かれるものがあった。

白水の阿弥陀堂は、福島県でただ一つの国宝である。

お堂は小さいが、周辺の山々と織りなす景色は、とても洗練されている。近くにあれば、ときどき訪ねたい。

 

さて、書にしても、短歌にしても、食べ物にしても、当方が気にいるものは、古き良きものという感じになってゆく。

食べ物は困ったもので、コンビニのものは、何度か続けて食べるとどうにも食べる気がしなくなってくる。一方、嵯峨野で、土地の腐葉土を使う農家の方がつくる野菜や果物は何度食べてもとても美味しく感じる

食品添加物が気になり始め調べると、日本の食は、食品添加物まみれだ。諸外国に比べて極端に認可されている食品添加物が多い。

このあたりのことは、吉野敏明氏が一番的確に指摘されている。

https://www.youtube.com/watch?v=uTkzVZW_PMU

 

食がいかに健康に関わっているか分かり、とてもためになった。

野菜果物はしばらく前からだが、さらに進めて件の農家から玄米を購入してきて、2日前から食べ始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20年目

日々雑感

 

 

 

 

 

     

 

18と19年目

蓮の花

日々雑感

 

 

 

 

     

 

17年目

日々雑感H31.01.16

 

 

 

 

 

     

 

16年目

日々雑感H29.09.10

 

 

 

 

 

     

 

4年目から15年目

11年目:書道

 

 

 

     

  

はじまり

 

古典典書法はじめの三年

李柏尺牘稿と顔真卿祭姪文稿

はじめに

楷書「一」

藤原道長

始平公造像記

自己紹介

文人画(墨竹)

小野道風

懐仁集字聖教序

 

西洋絵画

小野道風屏風土台

臨書集

古典書法の本質

散策

藤原行成

日々雑感

 

臨書

空海 

 

 

 

     

 


 

今から97年前、
分断され点在していた古典書法
それらを習いまとめ文人が生まれた
文化大革命時、その文人李卿雲は野に降り
書法をわが 師が引継いだ
文人がこの世 を去り13年
消え失せつつある古典書法
王羲之と言う名で語られる用筆の妙
歴史ある中国文化の神髄
用筆はそのまた神髄
縁ありそれにふれ驚いた
しかし、今は、中国文化に無関心である。
そして、イメージの西洋いやただただ便利なものことへと進む
中国文化に大きく影響を受 けていることなど気にすることもない
そして普通に目にするものは、生きた気をあまり感じない中国の工芸品
しかしそこから一歩進み、目にした、善い物としか形容できない書の文化
さて、歴史の中、中国から何を学び何を学ばなかったのかを考える
かすれにじみ、線のおもしろさを追求し、自由に書くことが流行である
しかし、気づくことなく、通り過ぎてきたとても善いものがある
ほとんどの人が、その真の価値に気づいていない
それは創造の泉、わきだすものは
うまきさけ

2002年記す

 

 

続けてきて分かったことであるが一番大切なことは、筆を握りしめず柔らかく保持して書くこと。2021.07.05


 

 


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