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西洋絵画

乙酉青陽   研賜


約13年前 研賜描「内なる画家の目」中之写真

 

 

左の絵は、「内なる画家の目 創造性の活性化は可能か B.エドワーズ著 北村孝一訳 エルテ出版」中に記載されている指示に従って、本に掲載されている写真を見て、鉛筆と消しゴムを使って描いた。欧陽詢など古典書法のように著作権がきれているものではないため、許可なく元となった写真を掲載する訳にはいかないが、元とした写真に似せて描けていると思う。なお、絵の中あご付近にある奇妙な線は息子のいたずら書きである。

なぜ中国で科学技術が発達しなかったか

これまで深く考えることをしていないが、文化遺産というべき古典書法を学んでいるとなぜ中国で科学技術が発達しなかったのかということが気になる。この機会に考えてみることにする。

その前に、見る描く

左のような絵を描けるかどうかは、タッチは除くとして、ものをありのままに見る方法を修得しているかどうかにかかっている。

この方法は、例えば、手を描く場合は、指が作る空間の方を見る、鉛筆を基準として長さや角度を読みとるなどの技術を習得することである。言葉を話すことのように、だれでもが修得可能な技術である。ありのままに描くことができるかどうかということは、視覚系の技法としてとらえるべきことであるという趣旨のことが、「内なる画家の目」では述べられている。そして、左のような絵を描くことができたことで実感として理解できたと考えている。

なお、この方法を修得することはさほど時間を要するものではなく、自転車に乗るのと同じ程度のことである。

描く方は、鉛筆と消しゴムを使うので、失敗すれば書き直せば済む話である。これも比較的短期間の訓練で済む。もちろん、タッチは別であるが。

 
 
  ここで言うありのままに見る方法とは、内なる画家の目の述べられている「現実”そこに”見えているものをそのままに描くために必要な見る技能」と同義である。
 
 

約13年前 研賜描「写真系雑誌中之写真」

 

 

見る描く方法が読む書くそして科学技術に与える影響

「内なる画家の目」に従って見る描くを勉強すると、不思議な程の実感をもって、気付くことがある。この本でありのままに見る技術として学んだ方法が、その他の行いに強く影響を与えることである。

その他の行いとは、読む書くことあるいは仕事などである。見ることに関係するあらゆる物事に影響を与える。

そして、描く絵が、実物に近くなればなるほど、影響を受ける行いの精度も上がるという関係にある。

例えば、ありのままに見ることが、ありのままに読むこととなり、描き方と同じような感じで文章を書くということになる。あるいは、ありのままに見る方法が、ありのままに物理現象を見ることにつながり、そして、描き方と同じような感じで、実験を行うというようなことが起こる。そして、その精度も、見方書き方の上達と歩調を合わせるように上達する。

西洋絵画の基礎は、写実にある。そしてこの手法を学んだことで、科学技術が西洋において発展したということに頷けるものを感じる。

ありのままに描くことは、見る方法が重要でありほとんどすべてであるとも言える。
見る方法の修得はさほど時間を要するものではない。さらに、見ることに関するすべてのことに速効性をもって強く影響を与える。

ありのままに見る、そしてそれはだれであっても相応のレベルで修得可能、精度を上げることも容易、試行錯誤を許容する。早く到達するためには、試行錯誤の回転を上げればよい、組織化も容易、ことごとく科学技術を普及させ発展させる要因を持っている。これによって科学技術は発展しているようなものである。

 

 
 

なぜ、中国で科学技術が発達しなかったか

西洋絵画の基礎は、写実で、手本は、自然、人物など現実の物が対象となる。

一方、書は、古典あるいは師の書いた文字を手本とする。古典は墨跡だけとは限らず、拓本の場合もある。

したがって、自然に問題はないが、手本には、問題が有る場合もある。

自分の手を西洋絵画的に描いたとする。これが、実物と似ているかどうかということは、一目瞭然である。しかしながら書は、似ているかどうかを判断すること自体が、以外に難しい。

書は、筆を使うため、表された文字は、手指の微妙な感覚を働かせてか書かれている。そして文字を書くときに使われた手指の感覚は、書かれた文字から読みとることは経験がなければ不可能である。自分の手指の感覚を書により鍛えて始めて理解できる世界がある。書においては、手本にそっくりと似せようとするならば、筆使いつまり指使いを、そして、指先の感覚をも真似る必要がある。

こういった皮膚感覚の領域は、普通に見ただけでは理解できるものではなく、修得するためには善い師が必要である。

とにかく、書の場合は、自分の誤りに気付きにくい要因が多すぎる。工学であれば、法則に反したことをして物を作れば、期待した動きをしないので、すぐ誤りを理解できる。書は誤っていても、動かないなどということはない。

さらに、鉛筆と消しゴムを使用して描く場合と違い、書は、試行錯誤は可能であるが、錯誤したそのものを修正して、積み上げて完成へと導くという訳にはいかない。

同様に、油絵であれば、失敗しても、塗り重ねて隠すことができる。科学技術であれば、失敗したところを修正すれば、その他のところは利用することもできる。

ワープロで文章を書くと分かるが、試行錯誤がとてもしやすい。修正が簡単である。書であれば、一カ所でも気にいらなければ、書き直しである。上手に失敗を失敗と見せないようにすることもできるが、とにかくそのレベルとなるのに、平気で10年20年を要する。(らしい)

西洋絵画であれば、体調をさほど気にする必要がない。不規則な生活をしながらでもいくらでも取り組むことができる。一方、古典書法は、心身の体調を整えて望む必要がる。

修得に時間を要する。独学では取得できない、修得している師すらいるのかいないのか分からない、心身の管理が必要、試行錯誤できない、見ること触ることへに関連するものへの影響も劇的におこらない、これはなるほど難しい。これを身につけた人々により組織を作ること自体奇跡に近い。

このように考えてくると、書を文化の中心にしたことは、科学技術という観点から見ると、とても難しいものを感じる。
中国で科学技術が発達しなかった理由は、このようなところにあるのかもしれない。

 

 

西洋絵画の技法の基礎は、ありのままに見る方法にあり、そしてにその方法は、速効性を伴って見ることに関するすべてのことに強い影響と与える。従って、古典書法は、見ること触れることすべてに影響を与えるはずである。しかし、内なる画家の目の内容を自習することで得られた速効性のある強い効果に相当するものが、古典書法を習うことによっては、ほとんど実感として得られない。西洋医学と東洋医学の違いにも似ているような気がする。

手本に問題がある場合がある代わりに、懐仁集字聖教序のように、指先に自然がするような動きを修得させてくれる想像を超えて優れたものも存在している。
 
 
 

もう一つの文明

 
 

研賜作真竹雪割花入

 

 

独学期間 研賜書波

研賜描写真

 

 

 
 

上の3点は、作る、書く、描くとそれぞれ異なるものであるが、実は共通点がある。

それは、なにかと言うと、作る、書く、描くときに、手先が感じる感覚である。
指先自体はほとんど動かさないで固定するため、まさに手先の感覚である。作る描くは途中で休むこともできる。書くは途中で休むことはできにくいが、あくまで指先を動かさないため、いずれにせよ感覚的には、静かに静かに、手先に戻ってくる力を感じながら、さらに手先を動かす感じである。
したがって、自分としては、上の3点は、手先の感覚からすれば同じものである。そしてこの感覚は、容易に工業技術に応用可能である。

古典書法の方はと言えば、指を動かすため、はるかに動的な中で、この感じを制御し続ける感じである。例えば、楷書であれば、機をとらえ続けて、動的な動きのなかで、戻ってくる力を感じつつ、微細に力を制御し、方向を変える、進むと言ったように、指、手、腕などを動かすことになる。機をとらえること、言葉を換えれば、タイミングがとても重要である。そして、なによりも、微細な感覚が増幅されて文字として表れる。ほんのすこしの力の制御の失敗が、墨跡としては大きな失敗となる。墨によってはっきりとした形となって表れてはいるが、求められるものは、微かな力の制御である。上の3点とは、質的に異なっている。

 

 
 

研賜臨九成宮醴泉銘

研賜臨始平公造像記