空海 |
from 甲申師走 研賜 |
甲申長月 研賜臨空海風信帖 (2004年臨書) |
2010.03.22臨書 |
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空海風信帖
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空海は、風信帖そして三十帖策子に惹かれ臨書したのが始まりだ。 渓流の地、山寺、書そして空海は、自然に、人の心が生み出すものである。
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空海風信帖最初の帖を臨書
当の中国に、唐時代の王羲之流の自然な筆使いの墨跡が残っていないため、この風信帖は、貴重である。ご存じのように、空海は、弘法も筆の誤りとして、書が優れていることで、世に広く知られている。 空海風信帖において認められる王羲之の行書を書くための筆使いは、中国では、清朝中期頃までは、歴史の表舞台においても、受け継がれていたことを確認できる。一方、日本は、小野道風の書に認められる程度である。
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左の文章を書いたのが、2004年の12月頃であるから、そこから、約2年と3ヶ月経過したことになる。 現時点では、この書は、欧陽詢を習うことにより、さらに書きやすくなるということが分かっている。 三十帖策子の方は、2004年12月頃の時点でかなり似せて書くことができている。 したがって、風信帖の方が、進んだ書である。
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甲申神無月 研賜臨空海三十帖策子第二十二帖 |
空海三十帖策子第二十二帖 |
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紙:三椏紙 |
空海三十帖策子第二十二帖を臨書
風信帖(812,813年)、三十帖策子(804〜806年)である。 この帖は、三十帖策子の内、特に書として優れている。 |
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。 今年の10月はじめの頃 実は、つい最近まで、この書のことは知らなかった。秋の宝物展というようなものを仁和寺で開催していたので、立ち寄ったときに、初めて知った。 今、手習いしている書法にあまりにも近いとと感じたため、受付の方に、三十帖策子として本として出版されたものがないか訪ねた。 受付の方は、知らなかったため、お坊さんを呼んでくれた。・・・・・・・(続く) |
空海(参考) 空海(774−835)は、774年に、讃岐国の豪族佐伯氏の子に生まれた。名前は直真魚(あたえまうお)。788年、15歳で、長岡京に上り、母方の伯父から儒学を学び、さらに官人をめざして大学の明経科に入学した。当時大学には六学科があり、書道科、音韻道科等もあった。明経科は、論語、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)などが教科の中心であった。しかし、空海は、一人の僧が示した修法に魅せられて、仏教への関心が高まり、791年に、大学を中途退学した。その修法とは、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐじもんじほう)で、これは、虚空蔵菩薩に念じて抜群の記憶力を得ることを求める法を説いたものである。 空海は、一切の経典を記憶するために、吉野、阿波、土佐などで厳しい修行を積む。そして、南都の諸寺や飛鳥の川原寺などで経書や経典の勉強に励んだ。同時に、この時期、王羲之をはじめ欧陽詢、虞世南、ちょ遂良の書法などで書道を勉強したと伝えられている。 そしてその成果として797年24歳の時に、空海は、三教指帰(さんごうしいき)を書き表し、儒教、道教に比べ、仏教を優れたものとした。 空海はその後、密教の大切な経典である大日教の解釈に疑問を持ち、入唐を望んだとされる。 空海は、804年、31歳の時に出家得度し、遣唐留学生として入唐した。 空海は806年33歳の時に20年の予定の唐留学をわずか2年で切り上げ帰国する。この間、長安において、恵果から真言密教を学んだ。 三十帖策子は、この在唐持に真言密教の根本法典を書写したものである。唐人の写経生や橘逸勢の手を借りながら、書写したものと言われている。 空海は、膨大な仏典、仏具、書法と共に、帰国したが、しばらくは太宰府付近に住み、入洛を願うもののかなえられなかった。この年に、空海は入洛を許され、高雄山寺に移った。空海36歳。なお、持ち帰った仏典、仏具、書法は、「請来目録」として記録に残されている。 請来目録は2種類の残っているが、より原形に近いと言われている東寺所蔵のものは、最澄が臨写したものであると明治に没した仏僧が唱えて今日に至っている。 空海の真跡として世に名高い風信帖は、812〜813年ころの書状で、最澄に送ったものである。 この時代は、嵯峨天皇の世で、勅撰漢詩集である凌雲集(814年)、文華秀麗集(818年)の編纂を命じている。また、嵯峨天皇は、宮廷諸行事や男女の衣服の唐風化を行った。 そして、唐代の始まり近く、高祖そして太宗、特に太宗をモデルとして政治宗教文化をおこなったと思われるほど、一致点を見ることができる。例えば、 (太宗皇帝は、玄奘(げんしょう)がインドより仏典・仏具類を大量に持ち帰ることを許可)−(嵯峨天皇時代に、空海が唐から仏典・仏具類を大量に持ち帰る) (太宗皇帝、書法、王羲之、欧陽詢)−(嵯峨天皇、書道、空海、?) (唐高祖(初代)の子、第1子建成、第2子太宗)−(平安京(初代)桓武天皇、第1子平城天皇、第2子嵯峨天皇) (第2子太宗は第1子建成を殺害。王羲之、欧陽詢を伝説化)−(第2子嵯峨天皇は先に即位した平城天皇を上皇としかつ政治宗教的に無力化。空海を伝説化) 嵯峨天皇は、空海、橘逸勢と共に三筆の一人であり、中国の欧陽詢などの書にも関心が深かったと言われている。 そして、空海は嵯峨天皇と親しく関係した。南都仏教に対して新しい仏教である空海の真言密教を国内に確立する上で、嵯峨天皇は、絶大な支援をした。809年の入洛から始まり、819年において、高野山に寺地を、823年には空海に東寺を給預された。 奈良時代そしてこの頃は、まだ、天皇家と強く結びついた南都仏教が絶大な勢力を誇っていた。南都仏教は奈良時代に平城京を中心に活動していた仏教である。
なお、最澄(767−822)に関して言えば、 785年、桓武天皇は長岡遷都をおこなった。 最澄(18)は、785年国分寺の僧つまり奈良仏教の僧であったが、比叡山で修行を始める。この直前に正式に僧となったばかりのことである。今で言えば仏教界おきまりのコースを外れることに相当する。最澄は以後12年、比叡山で修行を積む。 794年桓武天皇平安京へ遷都する。奈良時代の終わり、平安時代の始まりである。 最澄は、804年37歳短期留学僧として入唐し、メッカ天台山で天台宗を、越州で密教と禅を学び、805年に帰国した。このときに、経疏、法具類と共に、真草千字文、大唐聖教序、王羲之八帖、ちょ遂良書法、欧陽詢書法などを持ち帰った。入唐にあたっては後の平城天皇から金銀数百両の出資を受けた。 809年、早良親王の祟りとされる風病に病んでいた平城天皇(37)は、嵯峨天皇(25)に位を譲り、旧平城宮に移った。 810年東国へ脱出し嵯峨天皇方と闘いをかまえようとした平城上皇は、嵯峨天皇方に道を断たれ、平城宮に引き返したのちに、出家した。上皇は皇位への復活を断念し、これ以後政治的地位が後退する。 嵯峨天皇は桓武天皇の第2皇子で、漢詩・書に巧みと言われ、平安初期の唐風宮廷文化の推進者であった。 そして、812年に、最澄は、高雄山寺で真言金剛界、胎蔵界の結縁灌頂を、二度に渡って、空海から受けた。これは、空海の真跡と言われている灌頂歴名(812,813年)の中に、灌頂を受けた人として最澄の名前が記されている。 最澄の書としては、813年最澄47歳の時に、空海のもとにあった泰範にあてた尺牘(せきとく)(手紙のこと)である久隔帖が著名である。この書は空海の風信帖第1通目と古典書法から言えば同レベルである。 こうしてみると、 (奈良時代、南都仏教)−(平安時代、最澄、空海) (嵯峨天皇、空海)−(平城天皇、最澄) (平城天皇と嵯峨天皇)−(最澄と空海)
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参考文献 (1)書道全集 平凡社 (2)日本の能書 中教出版 (3)弘法大師空海・人と書木本南邨 朱鷺書房 (4)3日本全史 講談社
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注意:ここで示す人物の年齢は、誕生月をランダムに無視しているので、1歳の誤差を含む。 | |||
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実は、三十帖策子は、2004年10月頃に仁安寺の秋の宝物展で実物を見ている。 「三十帖策子は現在仁和寺の所有物であり、常は、京都国立博物館が保管している。本来であれば東寺にあってしかるべきでものではあるが事情があって仁和寺で保有することになっている。返す予定がないかと言われても、現在でも仁和寺では、ここに書かれている教えに従って諸事を執り行っている。」 三十帖策子がなにかを知らずに、顔真卿と王羲之の影響を受けたまさに唐時代の墨跡を見ることができたことに興奮し、出版された本がないか、寄付をしたら場合によっては写真に撮らせてもらるものなのかなどと、今思うと恥ずかしいことを言ったときに、お坊さんから聞いた話である。
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(なお三筆の一人として上げられてはいるが橘逸勢は曖昧模糊としている。真跡は残っていない。橘逸勢を三筆の一人としている意味はなんなのだろうか?) |
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灌頂(かんじょう)(広辞苑より) 「[仏]頭に水をそそぐこと。 秘密灌頂。密教で、阿闍梨(あじゃり)より法を受けるときの儀式。」 |
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2006.02.08 書の至宝展 |
書の至宝展を見てきた。9:30に入門し、まず空海の風信帖のところへ行った。しばらくゆっくりと見ることができた。 3帖あるが、本でみると、この3帖は、かなり感じが違ってみえる。しかし、実物を見た感じでは、墨使いそれから運筆の速度の違い程度のことと見えた。 とにかく風信帖は魅力がある。 |
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結局、書の至宝展は、3度見に行った。このときは、2回目で、特に風信帖をじっくりと見た。風信帖は人気があり、たくさんの人が集まってしまう。朝一番に行くことによって、ゆっくりとみることができた。 |
2006.04.23 お坊さんの書ということで、期待していなかったが、・・・・・ |
昨日、大阪市立美術館へ「書の国宝 墨跡展」を見に行ってきた。鎌倉・室町の禅宗のお坊さんの書ということで、見に行くことあまり気が進まなかった。 しかし、なんと日本人が書いた古典書法を見つけた。高峰顕日の遊高雄山詩である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それにしても、高峰顕日の遊高雄山詩を見ていると、空海の風信帖が自然と頭の中に浮かんでくる。古典書法的に見れば、遊高雄山詩の方が完成度は高いが、同じ人物、あるいは同じような書の習い方をした人が書いたように感じる。 家に帰ってきてからインターネットで調べてみると、 「高峰顕日(こうほうけんにち 1241−1316)は後嵯峨天皇の第二皇子、母方は不明で、密道と号した。鎌倉時代後期の臨済宗の僧で、1256年出家、1279年から無学祖元に師事した。」 そして、本当はこのような書は筆のほうが臨書しやすいのだが、いま筆は楷書にのみ使いたいため、万年筆で臨書してみた。間違いなく古典書法であり、風信帖とほとんど同じような書である。 それに、 (後嵯峨天皇−高峰顕日(密道)、遊高雄山詩) (高雄にあるのは、神護寺。) (神護寺は、高野山真言宗の寺院で、空海も一時住している。) (そして、嵯峨天皇−空海(密教)、風信帖) と、書と天皇家と宗教と空海がつながってゆく。 嵯峨天皇−真言宗 : 後嵯峨天皇−臨済宗
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高峰顕日 遊高雄山詩 |
臨書 (万年筆による) |
2006.04.24 |
しかし、高峰顕日には驚いた。そして日本人の古典書法である。 父である、後嵯峨天皇の書を調べたが、藤原道長・22代後の近衛信尹(のぶただ)などと同じ系統の書で、和様の書である。高峰顕日は、15歳付近で出家しているので、書に関しても教養の一つとして、この系統の書を厳しく手習いしているはずである。 空海、そして高峰顕日と、時代が大きく変わるときに、歴史の表舞台に、古典書法が現れている。
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2006.05.04 犬も歩けば棒にあたるというけれど・・・・ |
朝鮮ものの焼き物が見たくなり、昼から東洋陶磁美術館へ行ってきた。そして、今日は行くつもりはなかったのだが、大阪市立美術館へ急ぎ足を伸ばし、あわただしく高峰顕日の遊高雄山誌を再び見てきた。 ・・・・・・・・・・・・ 思い出したことがある。師の家を訪問させていただいた、3年半前のことである。り先生の所持していたある人物が書いた洛神賦の写真があった。そう言えば、その際に、その写真を撮らさせていただいていた。 今、その写真と遊高雄山詩を見比べている。筆者が見る限り、書のレベルとして同じような人物が書いたものである。
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2007.12.09 水 |
やはりというか、この枯れた青磁の梅瓶は、水を祭ったもの。水をしっとりと吸い込み肌合いを変化させる。水以外につかえば、よごれ穢れる。
阪急嵐山の駅を下りて、渡月橋の方へ、桂川沿いを歩いてゆく。晩秋、朝、晴れ、空気が冷たい。清滝の方を眺めると、山間に靄が見える。運がよい。・・・・・ 愛宕山の麓、渓流の地を歩く。苔、草、木、岩など、しっとりとして、生き生きとする。冷気も、しっとりと、優しい。細胞の一つ一つが、しっとりとした冷気で刺激されて目覚めてゆく。気が満ちてゆくようだ。水か・・・ まだ、少し、紅葉が残っている。苔がみずみずしい。やぶこうじ、一両、苔に密着している小さな蔓草など、赤い実を、見かける。緑に赤、鮮やかだ。渓流の音、澄んだ水。小さな魚が、泳ぐ、まれに、見かける大きな魚は、ゆったりとしている。中ぐらいの魚を見かけることができないのはなぜだろう。 舗装していない山道、そこかしこに目を奪われながら、ゆっくりと歩く。渓流沿い、山道、歩きやすいし、疲れにくい。歩けば歩くほど、疲れがとれてゆく感じがする。楽しい、遊んでいるのか。歩く歩く、車の運転をやめて正解である。古典書法に取り組み初めてから、よく歩くようになった。 水、草、木、岩はなぜ存在するのか、科学が答えることがない問いが頭に浮かんでくる。神の事・・・ 生きるための糧を得るために、狩りをするとしたら、自分自身が狩られることがあるとしたら、神や仏が、必要になる。切実でもある。愛宕山は、唐の五台山を模したもの。仏教の聖地にしようとしたところでもある。 神事、仏事、山、川、・・・森、一つのもの。 天目山と鶏龍山が、天目の焼き物でつながり、欧陽詢、趙孟ふなど古典としての書からは森を感じた。そんなことを、きっかけの一つとして、愛宕山の麓を訪れるようになった。 秋は、野山にでかけたくなるのだが、今年は、紅葉が始まってから、休みの日にはここにいる。 皮肉なものである。書は文字にして情報を伝えるものである。それよりも、その書法に、つきつめれば、指先の動きに、なんというか情報が詰め込まれている。 動きに遺伝子が埋め込まれている。そのような動きをすれば、導かれる。ある行為をするように、ある物に気が向くように仕組まれている。隠されているものに、指先で歩き近づいては、気づく。 平地の民と山の民のさかいにある山寺に、書と空海が現れるのは、人の心の自然であり、仏の事である。 そして、王羲之が、集字聖教序で仏のことを書くのも、人の心に、自然に現れるもの。 みずみずしい、人と調和した自然の地を、歩くのは、神の事だ。 山の民。漢字を生みだした漢民族の始まりの姿。文字は、神への祈り、誓いを記す。 そして、悠久の時の流れのなかで、書法そのものに、書いても伝わらないものを、悟る手がかりとして残した。なんとも人を人としてなりたたせているところの英知そのものである。 ・・・・・
ん、ここは。
ここの空気は、梅瓶と同じ。 巨大な岩。眼前にも、巨大な岩が切り立つ。足もとには、渓流。この場は、すこし深い。水がゆったりと流れる。小さな魚が泳ぐ。頭上には木立、木立の間を、空が川のように流れる。左右少し離れたところは浅瀬、水音が聞こえる。 背中と左右は、ところどころ苔生した岩。巨大な岩は、時を止める。千年程度では、なにも変わりそうもない。悠久の時。足下は、澄んだ水。時が流れる。木々。森の中に、入り込んだようだ。居心地がよい。森の胎児・・・、特別な場だ。今、晩秋、水は空気よりも少し暖かい、数分であれば、泳いでも、大丈夫そうだ。禊ぎ。 古典書法も、墨と使い水と遊ぶ。そういえば、日本の墨は粘りけがきつく、墨は、水とはまったく別物になる。中国の墨に、よいものがある。にじまないように、濃く下ろしても、さらりとしていて、水の本質を失わせることがない。 いろいなものを、そのときそのとき、気になり集めたが、結局、目の前に残りつつあるのは、水を祭るために使用したもの。そして、水を墨で汚すことに詫びつつも、使わざるをえないもの。 これは、作法が必要である。枯れた青磁は、神事に、天目は、仏事に。祭り終えた水、梅瓶から、枯れた青磁の水注へ水を移し、天目の水滴へ、水を注ぎ入れる。水滴から、黒い硯へ、墨を擦り、筆硯の墨池へ、移す。筆は、天目の筆洗で、洗い清めた後に、墨を含ませる。なんのために、ただ、続けている。そして、竹から作った毛辺紙へ向かう。 ・・・
夕闇が迫る。お茶、食事、特別な岩場での休息を除き、5、6時間歩いただろうか。歩けば歩くほど、疲れがとれてゆくような不思議な感覚のなか、闇とともに、踊っていた気が、すっと、水となって、細胞の中で、静まりかえる。体と心が落ち着いてゆく。そういえば、古典書法も、親指と残りの指を交互に歩くように動かして、文字を書く。同じくらいの時間、書に取り組むと、似たような、心地よさが訪れてくる。手の散歩・・
今、渡月橋近くで、大堰川そして岩田山を、見ている。ライトアップされた岩田山が、大堰川に写り微妙に揺らぐ。幻想的だ。水は流れているが、我が体の中の水は、鏡のように静かだ。さて、しばし離れていた浮き世にもどらなければならない。
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