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日々雑感

秋雲

 

  

  2017.9.10 古典書法

 
 

 

漢文力 加藤徹著を読んでいる。漢文を通して中国の古の人たち の思索を知ることができる。同感したり、いろいろと思うところがある。

科学技術において、西洋の考え方の一番の特徴は、何故に(why)と考えることを止め、如何に(how)を、どこまでも分析的に追求することだ。

だたし、分析的にも良いがこれには限界もある。

大にして、アキレスは亀に追いつけない状態に陥る。

アキレスが、亀に追いつくためには、まず離れている距離を半分に縮める。そして、また、半分に。いつになっても、半分で、永久に追いつくこができない。

中国の方では、これを、一尺のムチを、一日に半分取り除く、そして、今日も半分、未来永劫、ムチは尽きることがない。

となる。中国の方は、今から2千3百年前ほどに、哲学者である荘子の友だちの恵子が言っている。

今、社会全般的にマスコミも含めて、何故を考えないような仕組み作りに勤しんでいるところだ。

書の世界ですら、そうした傾向がある。見るものも見えずで論じているところがあるところは気になる。

古典書法の一番の特徴は、実用的であることだ。筆先の弾力を活用するため、筆先を硯などで整えることなく、墨が尽きるまで、書き続けることができる。

筆を通して、紙から返る力を感じながら、筆先をいたわるように、筆管が手指の中で回転する。積極的に右へ左へ回しているという感覚はない。

筆を選び、紙を選び、硯そして墨。水滴、筆洗もそうだ。好みに合うものを手元に置く。

一瞬にして、気持ちが落ち着く、そして、静かな落ち着きの中で遊ぶ。

現れてくる書体から、自分がなにをしたがっているのか、予言されているような感じでかすかに見えてくる。

あまり、人のことを言えない、我、書は続けることを目的としている。

何のために(why)を追わずだ。そして、書法(how)を追求す。

楷書は今でもそうだ、が、時に、右のような書を書く場合は、書法を意識することがない。筆先から返る力の変化を楽しみながら、身についたところそのままとして書き進む。

ただし、書法を含めて、古から残ってきたもののを臨書を通して学んだところ、そう、古典書法の偉大なところは、

時に、頭だけではなく、体全体の神経細胞の総意として、自分がなにをしたがっているのか、おぼろげながら見えてくるものがある。そして、それが、結局は、whyのひとつだ。

歴史ある書法に出会わなければ決してこのような感じをもつことはなかったであろう。

 

 

 

 

 

 

  

  2017.8.30  望む

 
 

楷書を書くと、少しだけだが、気楽な書を書きたくなる。

傾向としては、そのような書を書く時間は短くなっている。楷書で事足りればよいのだが、とぼんやりとであるが望んでいる。

 

書については、目標があまり意味をなさない。約束事と言えば、続けるということくらいだ。

あとは、望む感じでいる。楷書を升目がない紙に、すーと書いて形にならないものかと、これもぼんやりとであるが望んできた。最近書くことができる書を見る限り、そのような方向に進んでいる。

 

楷書は、陰からスタートせざるを得ないものである。陰陽どちらも同じ程度含むことになれば良いと思う。

続けていけば、おそらくそのようになってゆく、そう、希望としてそのように思う。

なぜなら、取り組んでいるのが、古典書法だからである。

取り組み初めに直感したことが、現実化しつつある。

・・・・ それは創造の泉、わきだすものは、うまきさけ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空海 三教指帰 仮名乞児から

 

空海 三教指帰 仮名乞児から

 

 

 

 

 

 

  

  2017.24

 
 

最近、おもしろいように使える筆が集まってきている。

筆を探してきては満足できずにいたことが遠いことのようだ。

升目のない紙に楷書を書いてそれなりに形になることを望んできたが、いけそうな兆しがある。

楷書の書法、大きくは筆の使い方を法式化しつつあることの結果のように思える。

 

 

 

 

  

  2017.07.01 梅雨

 
 

 

 

梅雨を写しに嵐山へ出かけてきた。レンズはライカのエルマーという、白黒フィルム時代、80年ほど前のレンズだ。空気感であれば色は必ずしも必要がないようだ。

水面に初夏あり。そして秋 近・・・。ただし、こういった言葉の内容の方には、楷書よりも、合うものがありそうだ。早速、試したものが上の方で、楷書を基本とする場合、是で、良し。楷書が陰、自運が陽。楷書の紙は、三椏で陰、自運は、中国のにじむ紙で陽。陰刻は技術がいるが、陽刻そうでもない。篆刻は、訓練していないのが陰刻によく現れる。これ陰刻は楷書に相当か。楷書はイタチで、自運は羊。もちろん、書の線は、陰陽によって現れる。この世の成り立ちが陰陽の渦旋というのは指先の実感だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2017.06.23 楷書の書法

 
 

 

基本的な筆使いに一通り指がなれてきた。楷書の筆使いの書法を固めようと模索している。

筆は柔らかく持つのであるが、自ずと横画は柔らかく、縦画は強くとなるので、いろいろな状況で、そのようになるように、起筆と終筆に法則を持たせようとしている。

文字の形は、書法に見合ったものに落ち着くはずだ。

横が大地で陰、縦が天で陽、十字は陰陽のマークでもある。感覚では、右回転が柔らかく、左回転は親指の引きの力を使うので強くなる。右が陰、左が陽、そして陰陽が時事刻々現れて、筆が渦旋し、文字が現れる。陰陽と渦旋で文字が現れる。横画にもいたるところで陰陽が現れるが本質は柔らかな右回転、縦画も陰陽がいたるところに現れるが本質は強い左回転、陰と陽の間で渦そして文字が生まれる、まるで日本神話の国生みである。

こんな感じで楷書を書くことに勤めている。どこかにしばらく籠もり、指先が器用に動いているうちに、納得できることろまでつめることを考えている。

 

 

 

 

  

  2017.02.19 この状態をなんといったらよいのだろうか

 
 

楷書は、やはり墨の色が優先順位の一だ。黒く立体的な感じがするところにくると気持ちがよい。

今日は、禅語をいくつか書いていた。まずは楷書を書いて、次に自運。

今はということだろうが、いくつか取れると、遊びに行きたくなる。といっても散歩である。外出用の着物に着替える。

・・・昼ご飯を外でとった。なにか、これで、一日が終わったような気がする。まだ、お昼をすこし過ぎたところである。

嵐山に移動、空気はまだ冷たいものの、日差しの明るさは春のはじめのものだ。散歩にちょうど良い。

読みたい本があるので喫茶店に入る。渡月橋が見える。本の内容を味わいながら、自分なりに考えながら、時に景色、行き交う人を眺め・・

 

本は、中西進氏の楕円の江戸文化だ。いろはかるたの見方を通して、江戸文化を紹介している。

中西進氏は、ひらがなでよめばわかる日本語という本から入った。古いやまとことばをとおして、日本人の基本的な考え方に気づかせくれる。時間をかけ熟成させたような思索だ。ありがたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2017.02.12 自運

 
 

右、紙は、楮紙で、それもお気に入りの店で求めたものだ。書き心地、墨の定着具合がよく、手すき独特の本物然として感じが好みだ。

 

墨もなんとなく使い方がわかってきた。硯は、使っている墨に比べ小さいが、よくおりる。この硯と、墨とで、黒々と深みのある墨色とできる。硯は、昔の韓国のものなので雰囲気も言うところがない。

ただ、少し水気が少なかったような気もする。

古典書法に取り組むより前の、書を思いだしている。書法がないので、、紙のようにぺらぺらした書であるが、その時から、今回書いたような書は、書きたかったのかもしれないと思えてきた。

 

 

 

 

紙は、半紙半分程度の大きさ

 

 

 

 

 

 

 

自分の部屋に張り付けて置く場合、このくらいのほうが飽きがこない。しかし、これはどの筆を使って書いたものか。

そうか、--半紙に書く。

 

 

 

 

 

  

  2017.02.12 自運

 
 

楷書を書くことができる羊毛の小筆をいろいろと比べてみた。

羊毛なので、楷書は柔らかな感じとなる。また、あまり小さな文字を書くには向かない。

楷書というよりは、自運によさそうな気がしたので試してみた。

 結果としては、よさそうなものがひとつと、細い線を書くことが容易なのでものがひとつあった。しばらく、この2つで遊んでみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楷書を書くことができる羊毛小筆

右側3本は少し古いもの。

持ちやすさと筆先の具合とで一番右側が、自運にはよさそうだ。1980代に作られた上海工芸の漢壁という羊毛の筆だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2017.02.05  楷書

 
 

今日も、筆遊びだ。民国時代に作られた鼬毛の小筆を使用した。

楷書を書くことができる筆を見つけることができなかったが、昨年の10月頃から、大きさ、毛の種類を違えて、楷書を書くことができる筆を持つことができた。

読める範囲の調和体で書くと、さらに小さな文字を書くことができる。

この筆は、柔らかい感じがする。筆先がとても緻密に作られていて、細い線も書くことができる。感動とともに感心する。

筆は、中国のものに善いものがある。日本のもので楷書をそれなりに書くことができる筆は今だ見つけらずにいる。

なんというのか、筆先がまとまりにくいのと、筆先に力がないのとである。なんというのか雑な感じがする。大きさ、使用する毛によらずそのような傾向がある。

日本のといっても中国製もたくさんあるので、この場合は、作り方、売り方両方ともに、楷書を書くためにはどうあるべきかをまずは理解していないということになる。

さて、古典書法の大きな特徴は、実用的なことである。

楷書の一画一画に複雑な動きが含まれている。一見すると無駄な動きに見えるかもしれない。

しかし、これはなんのことはない。一画一画で完結せずに続けると行書になる。

筆先からかえる力を感じ、利用するので弾力が強いほど、早くかくことができる。また、筆のいろいろな面を使う、さらには運筆のなかで筆先が整うので、墨が尽きるまで連続で同じ調子で書くことができる。

書く文字の大きさが違っても、同じように書くことができる。瞬間瞬間の筆使いの緻密さは、文字の大きさによってはさほど変わらない。

筆が見つかれば、まだ小さな楷書を書くことができると思われる。

ここで言う古典書法は、すぐに身につくものではないのと、いつまでにこうなるという感じで目標をもつことが難しいものであるが、このように書きたいとあいまいでも良いので希望をもって、続けてさえいれば、少しずつというかあるときはあれっという感じで、希望のところあるいは希望とは違うところ、意外なところが、進んでいるという感じで進んでゆく。

なんとも奥深い。文化の1つの極と思っている。しかもうれしいことに身に着けるものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

漢詩の方で、半紙の1/4

 

漢詩の方で、半紙の1/8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2017.02.04 楷書

 
 

目標とすることはできないが、升目のない紙に、楷書をスラスラと書き、そして書いたものを自分自身で楽しみたいものである。

今、昼頃であるが、今朝から筆を使っていた。

 

楷書は、一瞬の素早い運筆が必要であるため、心を落ち着けつつも、高速で書いている気分だ。

この筆は強い弾力を持つ。手指が動いてくるにつれ、線が澄んでくる。

 

2月2日から古典書法に取り組んでから16年目になる。

仕事とは違って、書については、目標をもってというよりも、続けることを願ってきた。

ん・・・

目標らしいものが一つあった。

書に、よく散歩をした渓流の地の雰囲気が現れないかということは思ってはいた。が、これは目標になるようでならない。

それにしても取り組み始めたのははるか昔のことのような気がする。

目標を持たないというか持てないことででよかったことは、ときに現れてくる書を自分自身で楽しむことができたことだ。

続けていればこのようにできるようになるのかと感心することもある。

中国の歴史ある筆使いを学ぶことができたことは幸運であった。

 

 

 

 

紙の大きさは、半紙の1/4 

 

 

書いた文は空海の言葉である。意味は、

 

一身 ひとり生きて没する。

電影のように、これ、無常

雁やつばめが、また来ては去ってゆく

紅の桃の花は落ち、芳香が漂っていたのは昔のことだ

半紙に書く。羊毛中筆