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楼蘭出土李柏尺牘稿と顔真卿祭姪文稿

乙酉青陽   研賜



 

 

  楼蘭出土李柏尺牘稿
 

 

乙酉青陽 研賜臨楼蘭出土李柏尺牘稿 
毛辺紙、文字大きさほぼ原寸大

 

 

 

楼蘭出土李柏尺牘稿(りはくせきとくこう)(李伯文書)

楼蘭出土李柏尺牘稿は、かなり前から、不思議に思っていた書である。

集字聖教序の字体とかなり違うにもかかわらず、李柏尺牘稿は、集字聖教序を臨書しているのとほとんど変わらない指使いを求められる。ただ、起筆、終筆部の無造作ともいってよい書き方はどうして真似をしたらよいか分からない。

それにしても、字体に隷書の雰囲気が残り、新鮮に映る。王羲之で象徴される用筆とほぼ同じ指使いを求められるのであれば、端正にも書けるはずである。なぜ、端正に書かないのか。

 

 

李柏尺牘稿(328年)

1909年、楼蘭(ローラン)遺跡で、西本願寺中国西域探検隊(大谷探検隊)が、発掘し日本に持ち帰ったもの。一般に「李柏文書」と呼ばれている。掲載したものは2通の首尾完存した文書の内、全体的に太く書かれた方。李伯尺牘稿は紙に書かれている。紙の縦の長さは漢代の一尺相当であり、当時の木簡の長さと同じ。書用の紙が発明されてから200年程度経過した時期のものである。

 

 

顔真卿祭姪文稿(さいてつぶんこう)

もう一つ分からないものがあった。顔真卿祭姪文稿の良さである。

これは、昨年、台北の故宮博物院で実物を見ている。

 

 

 

祭姪文稿の一部分、左側が本文である顔真卿祭姪文稿、右側は清の乾隆皇帝の「顔真卿祭姪文稿記」

 

顔真卿祭姪文稿は、長さ約6mの巻物中に収められていて、大きさは、幅約29cm×8cmである。内容は、安史の乱で斬殺された甥の顔季明(きめい)の霊に捧げて書かれた弔いの文(祭文)である。祭姪文稿に書かれている乾元元年(758年)顔真卿が地方に左遷されていた49歳のときのものである。

 

顔真卿祭姪文稿

 

 

 

 

元の鮮樞の前跋

 

元の後跋

清朝乾隆皇帝の記

 

 祭姪文稿本文

 

 

 

 

祭姪文稿の巻物の中には、元の鮮于樞(せんうすう)、長晏(ちょうあん)の跋文、清の乾隆皇帝の記などが、収められている。

そのときにどのように意識したかを、言えば、上に示す4枚の書法のとおりである。十分伝えることができないが、圧倒される程の、次元の違う迫力を感じた。

そして、なぜ、顔真卿が、その生涯とともに、書法において、欧陽詢、集字聖教序などと並び讃えられるのかを実感として理解できた。

 

残念ながら、ここで示す写真では、実物の持つ善さを十分伝えることができていない。

李柏尺牘稿

顔真卿祭姪文稿

 

 

その後、特に臨書をすることもなく迫力の書法上の理由を探ることもなかった。

李伯尺牘稿は、ときどき臨書をしていた。そして、昨年の11月か12月であるが、用筆の速度を通常より相当上げてみたところ腑に落ちた。

そっくり真似るという臨書の定義に外れる程のスピードで臨書をしないと、似てこないものがある。

そして、そういう目でみると、顔真卿祭姪文稿は、さらに用筆のスピードが速く感じられた。そして、墨が間に合わないほどのスピードを伴った用筆で臨書して始めて、顔真卿の行書の持つ意味を理解できた気になった。(えい州帖参照)

表現としては、速、剛かつ奔である。ほとばしる感情が目で見えるような気がする。そして、臨書時には、頭の中は、逆に静かに冴える。

まさに書法の陽の典範である。

中国には、米ふつなど、古来よりこのような用筆の伝統を見ることができる。李柏尺牘稿は1900年になってから発見されたものであるが、328年に書かれている。書用の紙が発明されてから約200年経過した時点の書である。

それから、さらに960年を経て、1288年に元の鮮于樞の跋文とともに祭姪文稿は歴史に現れた。

太宗(598−649)、欧陽詢(557−641)九成宮醴泉銘(632)から656年、懐仁集字聖教序(672)から616年である。

顔真卿祭姪文稿は、歴史において、積み上げられかつ深化された結果として存在する文化遺産。そして、人類の英知。今の時代においても、それに近づくものに、深い感銘と影響を与える。

 

 

表現は、速、剛かつ奔であるが、臨書すると理解できるとおり、気持ちは熱いものがあるが、頭は、集中し、落ち着いている状態になる。書かれている内容と、この感覚とのギャップがなにか腑に落ちないため、念のために、この書法が歴史に現れた経過を調べてみた。

祭姪文稿は、758年から約360年後、1118年頃に、宣和書譜に収められるまで、どのような流転があったが、明らかでない。元の鮮于樞(1257−1302)の跋文1288年が現れるまでの経過も、定かでない。宣和書譜に記載されているのは、宮中に蔵している顔真卿の書は28あるということであり、鮮于樞がこの跋文中で、祭姪文稿はその一つであると言っている。従って、たしかなところで言えば、顔真卿祭姪文稿は、李伯尺牘稿328年から、960年を経て現れて、陽の典範とされたとなる。参考までに、趙孟ふ(1254−1322)。

 

 

顔真卿(がんしんけい)

顔真卿(709−785)は、山東ろう邪出身で、代々学者を輩出した家系に生まれた。

幼くして、父を失い、母、伯父、兄に訓導を受けた。

太宗(598−649)から60年、欧陽詢(557−641)九成宮醴泉銘(632)からは77年、懐仁集字聖教序(672)からは35年後に、生まれたことになる。

712年玄宗皇帝(22歳頃)が即位し、のちに開元の治と呼ばれるさまざまな政治改革が開始される。そして、長安を中心に、長安の春と言われる国際色豊かな文化が花開く。

玄宗皇帝は、745年55歳の時に、子息寿王の后楊玉環22歳を後宮に入れ貴妃の称号を与えた。この頃から、国が乱れ始める。

そして、755年には、顔季明が父顔杲卿(がんこうけい)の目前で斬殺される安史の乱(755−763)がおこる。安史の乱は異民族である安禄山とそれを受け継いだ史思明による漢民族唐王朝に対する反乱をいう。顔真卿は、きわめて旗色の悪い唐王朝側で、一時、安禄山軍の江南進出をはばんだ。

 

 

 

 

参考文献

(1)顔真卿祭姪文稿 学習研究社
(2)祭姪文稿・祭伯文稿・争坐位文稿 二玄社
(3)書の歴史(殷〜唐) 講談社
(4)クロニック世界全史