書道 研賜 since 2012.02
書道 研賜 since 2012.02
以下は、古典書法10年間の記事
1.はじめに
書道(しょどう)とは、そこに人生の意義を感じる人が「筆を使って文字を書くこと」を言う言葉。
漢字を生み出した中国において筆の使い方が高度に発達した。中国では書き方、書かれたものあるいは書をすること自体を書法という。
書かれた文字に気を感じる人には、王羲之という名で象徴的に語られる用筆の妙が重要な意味を持つ。この場合は呼吸の仕方が重要だ。書は、筆の使い方、呼吸及び善意識がそのまま文字となって現れる。
善き書法を伴った文字は神への祈りのために生まれた。後には、仏への祈りのためにも使われた。
脳そのものに近い手を発達させるため、個性を増幅させる働きをする。
文字の形は様々でよい。大切なことは中鋒を基本とすることにある。これによって、自然を感じることができる。
中鋒を基本とする書道は、芸術という範疇にあるものではなく、これを言い表すよい言葉は見当たらない。
習得は臨書による。手本に書の古典を使用する。2012.01.03
2.書道の歴史
美術史としてではなく、はじめに述べたようなところで書について歴史を見てゆく。
(1)甲骨文字
中国殷の時代の文字で、紀元前1400頃が最古。漢字のはじまり。亀の甲羅、牛の骨などに刻まれた。朱で筆をつかって下書きをされたものも発見されている。神への卜占の内容、王の判断、実行結果などが書かれている。下画像の部分拡大そしてその臨書は、 甲骨文字へ。2012.01.04
甲骨文字 第1期
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書道の歴史 書道1年目として準備 2012.01頃
なお学術的には絹文字という定義はない。ウ・・ペ・・アに記載された「書道」の文中にどさくさまぎれに挿入されている個人的な感想と同じ取り扱いを希望。
(2)金文(字)
殷周時代の青銅器に鋳込まれた文のこと。下図は周公簋(しゅうこうき)に内底にある文字。拡大及び臨書は金文へ。 2012.01.05
金文 周初期
金文(続き)
一昨日の甲骨文字そして昨日の金文と借りを作ったままである。少し返しておきたい。金文の三を見て思う。筆を使って書いている。しかし鋳込んで作った文字である。 臨書は墨跡。どのような書き方でもよいなにか加えられるはずだ。しかし・・んー なぜだろう考えてしまう。 結論は金文へ。 金文以上。2012.01.06
金文 周初期 臨書
(3)絹文字
絹に筆をもって書かれた文字。湖南省長沙近郊で発見された楚帛書が最古のもの。戦国期のもので甲骨文字及び金文と同種の文字。これで最古における最先端の筆法を知ることができる。 周囲に神話的図像を持ち、四時、五正、五木、観星、行火、年月宜忌関係など神旨が記されており、戦国期の陰陽家も研究可。 参考 平凡社 書道全集。 これは価値無窮。戦国期すでに楷書の筆法を含む。神の旨を伝える書ゆえに技術的にも精神的にも極。臨書は2倍程度実物より大きい。詳しいところは楚帛書へ。
楚帛書 湖南省長沙近郊戦国期墓出土 絹
臨書拡大「三と死」
2012.01.07
(4)竹文(ちくぶん)
戦国期の竹簡に波たくに近い横画がすでに認められる。左下は、湖南省長沙近郊の古墓から発見された楚簡と言われる竹簡。副葬品の目録で品名と数量が書かれている。なお、戦国期の竹簡にもう少しわかりやすく隷意が現れているものもある。
竹簡を作り書いてみた。手に持って書くと気楽に書け、横にまっすぐな線が書きやすい。起筆は楷書と隷書の間を書くような感じで逆筆で入ると筆の弾力を利用して横画を快調に書ける。自ずと隷書の線が現れる。
竹簡ではわかるように示せないため、紙に同じ筆法で書いたのが次。 実験の様子そのままである。用意がよすぎる? 竹は真横に切断することの専門家である。任せておいて間違いがない。
少し右上に線を引くと、自然に終筆が紙と同じように形となる。神旨を絹に書くと楷書の筆法、竹に品目などを書くと隷書の筆法が現れる。この竹簡に書かれた文字を定義するならば、隷書の筆法を含む篆書ということで隷篆書もよい。あるいは竹篆書か。
この実験で言えることは、筆法は、視覚からではなく皮膚感覚つまり筆から返る力を感じることから生まれる。筆が返す力を発生させるためにコツはあるが、どちらにどのように筆が進みたいのかを感じることだ。そしてそのように筆が進むように手指で妨げないことである。 2012.01.07
(5)石文あるいは石篆書
説どおり戦国期のものであれば、石鼓文は石に刻まれた文字として最古のもの。楚帛書(そはくしょ)そして楚簡と時期は同じ頃。石の刻されたものであり、甲骨文字と同じように太さの同じ線による文字。したがって、筆法を深く探る文字ではない。大篆として分類されている。が臨書は石鼓文へ
楚簡
湖南省長沙近郊古墓出土
戦国期
竹
石鼓文(せっこぶん)
歴史を見ると亀の甲羅、獣骨、石に刻む、絹、竹に書くというように、様々なものに、その特徴を合わせた書体を洗練させて記している。書くものの特徴に合わせることは皮膚感覚による。洗練とか美しさは人も含めた自然が本質として備えているもの。2012.01.08
(6)秦の公式書体
説文解字に曰く。「秦の書に八體あり。一に曰く大篆、二に曰く小篆、三に曰く刻府、世に曰く蟲書、五に曰く摹印(ぼいん)、六に曰く署書、七に曰く殳書、八に曰く隷書。」大篆は石鼓文、小篆は次のとおり。摹印は印章用でこれも次のとおり。いずれも篆刻用常用辞典を見て書き写したものとして実例を示したいがなかなか書くことが難しい。練習も必要であるが、ただし篆書の臨書は楚帛書に限る。参考:泰山刻石 2012.01.08
(7)隷書
筆で書きやすい書体。形状は楷書に近いが、行書の感覚で気楽に書き進むことができる。戦国期より隷書の筆法が見られる。竹簡に書くことによって発達した感覚を元に発達した筆法であろう。楚簡では現に隷書の波たくに近い線が見える。百花撩乱のように咲き誇った隷書体とこれがいまの楷書の形に近づいてゆくメカニズムに興味がある。絹あるいは紙に書かれたものでよいものがあれば臨書は楽である。碑は刻意が混在するため難しものがある。
ここはあまり考えずに行書のようにどんどん進んでみる。まずは、百花繚乱の隷書へ。
これは、比較的字形見やすいものの中から、直感的によいと感じるものを選んでいった結果である。年代をその後に調べると、特に、魏の曹操(150 - 220年)の生きた頃のものがすばらしい。皮膚感覚的な楷書の筆法はこのときにここに一つ、あそこに別な一つと咲いている。しかも水が高いところから低いところへ流れるような自然だ。
筆者は曹操=蒼天航路のイメージだ。曹操は書をしたのであろうか。肉筆が残っていれば言うことがない。臨書を通して会話可能である。時の流れ立場そうではなく皮膚感覚で会話をする。心の中にダイレクトに飛び込んでくるものがある。それが臨書である。2012.01.08
さて、今日は朝から昨夜ピックアップしておいた隷書の臨書に取り組んだ。そして指先の感覚が乙瑛碑曹(153)そして曹全碑(185年)でジャストミートした。乙瑛碑には隷法のたどり着いたところを感じた。曹全碑は、終筆が外に見えないところで楷書の筆法を使用すると書きやすい。この書には歴史、熟達、自由、創造など感じることができる。
ちなみに筆者は普段ほとんど楷書の練習をしている。にもかかわらず、隷書は書きやすい。中鋒を基本とする他は隷書は楷書の筆法を共通するところがない。いわばコインの裏表の関係だ。
楚帛書では篆書に楷法が見られた。そして曹全碑では隷書に楷法である。楷法は唐の時代に確立されたというよりも歴史の中で連綿と続いていたことになる。
曹全碑
乙瑛碑
乙瑛碑曹全碑臨書
こうして、臨書を見ると臨書中に指先が喜んでいたことがよくわかる。
さて、隷書は漢武帝(BC156-87)によって正式書体とされた。筆者は漢を飛び越えて魏へワープしていた。400年ほど時間を巻き戻す。
秦の時代においては、竹文で見たように篆書に隷意が入りはじめていた。漢の時代の正式書体である漢隷は、隷書に篆書が少し残ったものとなる。
竹簡に書きやすい線
漢隷 老子乙本
上は、漢隷老子乙本で、絹に書かれている。同じく絹に書かれた楚帛書と書き比べると隷書の理解が進む。
隷書は楽に書くことができるが、天への祈りのような精神性には同じものを感じる。
楷法とコインの裏表にあるような隷法をもつ文字を公式書体とした意味はなににあるのだろうか。楷法は楚帛書で見られる筆法である。陰陽の国である。いわば陽の隷法と陰の楷法。広めるにあたって秘するとすれば陰の楷法。老子に曰く「曲則ち全」。老子乙本拡大へ。2012.01.09
老子に関してはほぼ同じ時期に書かれた甲本がある。より篆書に近い秦隷で書かれているとのこと。甲本は陰である。
確認をするために 会社の帰りに本屋に寄って見たが見つからなかった。もし生まれかわりがあるとしたら、筆者はこの時代あたりにこの湖南省長沙で書をしていたのであろう。科学的に言うならばDNAの不思議さ。2012.01.10
参考
昨年からであるが、極力、部屋に風が通るようにしている。今夜もガラス戸を開けている。電気カーペットを使用しているが、今部屋の温度は11℃だ。
空気を新鮮にしておくと体の内が暖かい。人間もエンジンと同じ。生きることは、「酸素を使って体を燃やすこと」と定義したい。書をすると呼吸が深くなるのも寒さに強くなった一因と思う。
しかし、今晩は贅沢をしている。火鉢である。福島県産のくぬぎの墨を使用している。最近手に入れた。いままで使用していた墨と比べると、形が美しく、火付きそして火持ちがよく取り扱いが容易だ。なによりも甘く良い香りが漂う。伽羅などよりも良い。しかも燃えている間ほのかにではあるが香りが漂よい続ける。もちろん手をあぶることもできる。今晩は使用する時間も短いので少量で香りを楽しむことを主とした。書であるが、2種類の臨書をして、このホームページの中の2カ所にそれぞれ掲載しておいた。さてそろそろ寝るとする。2012.01.10
今日は韓国の国民的詩人 金素月(1902-1934)の詩を訳していた。筆者の韓国語の先生との共訳。人を思う気持ち、音の美しさ、鮮やかな色彩感など惹かれる。詩の訳なので韓国語と日本語の微妙な違いそして日本語の勉強になる。
最近は中国語も習っている。限界があるとは思いたくない気持ちあり。そんなこんなで昨日の生きるの定義を書き直すことにする。
生きるとは、酸素を取り込んで体を燃やすことでエネルギーを得て、刺激を求めそして受けて反応すること。
そうすると死とは酸素を取り込めなくなること。あるいは酸素を取り込んでも体を燃やせなくなることとなる。
したがって息は大切である。2012.01.11
(8)紙文字
草隷、章章など草書の臨書を行おうとして古典を探しているが、見つからない。ここで考えてみた。最古の紙に書かれた文字を掲載するのがよい。
ただし、皮膚感覚としては絹文字と同類と考える。最古の紙文書へ。
戦国策残片と言われているが・・・
戦国時代のもとと言うが、おそらく二玄社の発行した本の中での誤りと思うが、思うところを書く。
これは西晋時代の頃の文字とそっくりだ。 そんなことを考えると、一般的に言われている文字の発達の仕方も疑問だ。
皮膚感覚から言えば、
篆書を木に書くことで直線的な線を持つ隷書が発達する。絹や紙に書くことで篆書の中に楷書を書く筆法が発達してゆく。隷書的な直線的な線を多様する文字が絹紙書く場合にも行われるようになる。もともと絹紙で発達していた書法がそれを書く際に用いられる。そして、楷書となる。楷書を略するために行書さらには草書ができてゆく。
とこんな感じだ。2012.01.15
戦国策残片臨書
真似ることむずかしい。 2012.01.15
(8)紙文字(つづき)
楼蘭出土李柏尺牘稿李柏尺牘稿(328年)
1909年、楼蘭(ローラン)遺跡で、西本願寺中国西域探検隊(大谷探検隊)が、発掘し日本に持ち帰ったもの。一般に「李柏文書」と呼ばれている。掲載したものは2通の首尾完存した文書の内、全体的に太く書かれた方。李柏尺牘稿は紙に書かれている。紙の縦の長さは漢代の一尺相当であり、当時の木簡の長さと同じ。書用の紙が発明されてから200年程度経過した時期のものである。
昨日、初弘法さんへ行ってきた。花台に使えるものがあった。韓国の古い木工だ。こういった良い加減のものをなぜ作ることができるのか不思議に思う。古い陶磁器、草花など自然なものと調和し、現代的なものともマッチしないこともない。水が豊富で草木の多様な日本でこそ作られていても良さそうだ。が、そうではない。
最近、ピクサーのコンピュータグラフィックスを駆使しかつストーリーのしっかりした映画には感動した。一通り見て今は落ち着いている。一方、韓国のテレビドラマは、はまったことのある人であれば分かると思うが、全巻見るのに100時間程かかろうが魔法にかかったように見切ってしまう。俳優さんの魅力と技量、ストーリーの妙だ。人ならではのできることの追求の差ということだろう。どのように世の中が変わっても、人が落ち着くところだ。そういう意味では韓国が最先端であり続けている。
(数日後:しかしこの木工は渋すぎた。側面に漆を少し塗ってみてはどうかと考えている。)
韓国の古い木工
李柏尺牘稿臨書(7年前)
10年(現在)
9年
8年
7年
6年
5年
4年
洛神賦
古典書法はじめの三年
今から107年前、
分断され点在していた古典書法
師事することでそれらを習いまとめ上げる文人が生まれた
古典的な文化を崩壊させた文化大革命時、その文人李卿雲は野に降り
書法をわが師が引継いだ
文人がこの世を去って、23年
今、京都の地でそれを目にすることができる
歴史の表舞台から清朝中期以降は消え失せた古典書法
王羲之と言う名で象徴的に語られる用筆の妙
歴史ある中国文化の神髄中の神髄
用筆はそのまた神髄
縁ありそれに触れ、驚いた
明治以降、西洋文化へと進んできた日本
今は、意図的と思えるほど中国文化に無関心である。
そして、イメージの西洋いやただただ便利なものことへと進む
日本が、中国文化に大きく影響を受けていることなど気にすることもない
悪いことに、普通に目にするものは、作業は細かい芸術性のない中国の工芸品
しかし、そこから一歩進み、目にした、善い物としか形容できない書の文化
歴史の中、日本人は中国から何を学び何を学ぶことがなかったかを考える
かすれにじみ、線のおもしろさを追求し、自由に書くことが流行である
しかし、気づくことなく、通り過ぎてきたとても善いものがある
中国でさえ、その真の価値に気づいていない
それは創造の泉、わきだすものは
うまきさけ
研賜
since2002
これは7年前の臨書だ。なんとか似せようとしていろいろ試した結果のもの。この時は自分でもびっくりするくらいのスピードで書いた。感覚的には両手を使ったブラインドタッチによる文字入力よりも早く書けた。今、試して見ても良いが、できるかどうかを頭で考えるとハードルが高い。この書も戦国策残片と同様に書法を尽くした上で工夫をしないと似せることができない。
手指の皮膚感覚で言えば、紙であればこのような楷書・行書の筆法を使った方が書きやすい。やはり隷書は竹など木に書くのに適した筆法である。紙に記録することが普及していることの証拠の一つだ。
参考:李柏尺牘稿
筆者もそうであったが、おそらく李柏尺牘稿は下手な文字に見えるのではないだろうか。今、筆者の手指は甲骨文字、楚帛書、乙瑛碑、曹全碑そしてこの書に魅力を感じる。韓国の古い木工に魅力を感じるのも同じところから来ているのだろう。
李柏尺牘稿から後、300年程、書体の様式化が追求され隋唐の楷書となる。現在の日本の漢字の形はこの随唐の時代の漢字の形を良く残している。一方、台湾は、印刷技術などが発達した後の画数の多くなった漢字となり、中国は文化大革命の時に簡略化しされた漢字となっている。
筆者、10年前に古典書法に出会ったとき、特に中鋒を基本とすることに、自然の摂理(いわゆる自然さ)を感じた。
これは,
wikipediaの神道の記事、
「一説には、神道とは惟神の道(かんながらのみち)であり、「ただあるがままを生きる。この世には人智を超えた神々の計らいがあり、その中をただ自然に生きることこそ大切」とも言われるが、その根幹にあるものは森羅万象や祖霊、死者への畏敬の念である。古来、日本人は「人道」に対する「神道」という、人道よりももっと高度な、善悪を超えた、宇宙や地球の法則のようなもの、人類も含めた「物・事の在り方」「道(みち)」をその精神の中心に置き、大事に伝承し、・・・・」
を読む限り、ほぼ古典書法はそのまま神道につながる。つまり、
思うに、中鋒を基本とする書道とは、多くの日本人がそのようにしてきた道と一致する。この世には人智を越えたものがある。それが自然である。自然の力を感じ自然と一体となり書くことこそ大切である。その根底にあるものは森羅万象や祖霊、歴史の中でそれを伝承し発展させてきた人々への畏敬の念である。古来、人は、善悪を越えた宇宙や地球の法則のようなもの、物あるいは事のあり方を道としてその精神の中心におき、それを具現化したものを大事に伝承し、普及させるように努力してきた。
となる。
これで、古典書法十年間の区切りとし、次へ向かう準備ができた気分だ。2002年02月02日に初めて古典書法を教えていただいた。まもなく古典書法の10年目が終わる。次は、書道(しょとう)とし、進むつもりだ。分かりやすく言うならば八百万の書。2012.01.22
李柏尺牘稿
古典書法11年目になる。 これまでは古典書法が身に付いたような気がしなかったため、書に関して目標となるようなことを言えずにいた。 今年は習いおぼえた書法を使い東方朔画賛碑で作品を作ろうと考えている。以降は、書道として気持ちを新たに進むこととする。なお、書道はしょとうと読む。2012.02