藤原行成白氏詩巻(最終章) |
2006.04.01 研賜 |
臨集字聖教序 万年筆による |
愛用している万年筆は、イメージとおりに線が現れるようになりつつある。紙と接しているか接していないか分からないような状態においても、線が現れる。 指に負担を書けずに日本の書をたどることができる。さらに、間の取り方を同じにすれば中国の古典を書くこともできる。 さて、今日は藤原行成白氏詩巻を万年筆で臨書するための指ならしとして、まず集字聖教序を臨書してみた。 |
2006.04.01 万年筆 |
乙酉青陽 臨書 |
藤原行成白氏詩巻
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藤原行成白氏詩巻は、一年程前に、毛筆で臨書しているが、真似をすることが難しく、どうもこの書を評価するレベルに至っていないと考えていた書である。 万年筆という新しい手段を得たので、再度、調べるために、集字聖教序で指ならしをしたのちに、直ちに臨書したのが、上の左の書である。 次は感想である。 「筆先のききを利用して中鋒をとる日本式の筆使いにより書かれた書である。 しかしながら日本式といっても平安時代のかなの書とは違い自然に手先を進めることができない。意図的な運筆である。つぎはここ、そしてつぎはこう、という感じである。」 この万年筆による臨書は、特に練習をしていない。これだけ書いたものであるが、これ以上は、書くことがつらい。 一つ一つの文字に関して言えば、善し悪しではなく、筆者の進む方向とは別なところにある書ということになる。
ただし、この書は、独学期間に相当に臨書した書でもある。おそらく、その影響が何らかの形で、現れてくることになる。あるいは、現れているのかもしれない。書に関して言えば、なににどのように影響されるかを決めるのは、主として指先である。 まあ、あまり好ましくない結果となり、藤原氏に申し訳ない気がするが、これもできる限り理解しようと努力した結果であるのでご容赦願いたい。
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