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日々雑感

   研賜

 

 

2010.01.24

 

最近、童話や昔話に適した書の研究をしている。近いうちに紹介する。

書のことは意識というか指先がするものなので、これまで、このように先のことを話すことを避けてきた。

もっと指先を信じてもよいように心境が変化した。実は、こういった新しい試みの結果を見ることは自分でも楽しみだ。とにかく書いて、ホームページに掲載して、はやく眺めてみたい。

 

 

 

 

 

2010.01.17 禅

 

2010.02.01で、古典書法8年目が終了する。

8年目としては2つ目「」をアップした。

楷書、行書などそれぞれの書体に、型が出はじめた。このようになるのはばくぜんとであるが、10年以上かかると思っていたので意外である。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010.01.05 復

 

 

書に今どのように取り組むべきか易で占ってみたところ、「復」という卦が出た。

季節が巡るように、もとに戻る。そう言えば、身につけているものは違うにしても、最近、書の取り組みは、古典書法にとり組む少し前の状態に近い。

 

この卦がでたときは、次の段階のことを、落ち着いて、近いところから遠いとこまで計画する気持ちが大事ということなので、そのようにしてみる。

 

占うこと自体を毛嫌いしていたが、易は東洋というか中国の偉大な智恵だ。

 

なにか壁に突き当たっているときに限らず、順風満帆のときにも役に立つ。参考までに次の2つの本を推薦する。

 

中国医学の源がわかる まんが易経入門 周春才・作画 鈴木博・訳医道の日本社 

易入門 黄小娥 サンマーク出版

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.12.29 試している

 

半紙6文字程度まで使える穂の直径1cm程度のいたち筆で、このように小さめに21文字書いてみた。このあたりで、なにかフィットする。自然で楽しい。

この筆はだいぶと使った筆で先がすれているので文字の大きさはこの程度がいいところだ。先がすれていない真新しい筆を使えばかなり小さな文字も書くことができる。ただし、楽しいかどうかは別であるが。

力加減の容易さ、使いこなす難しさ、書くことができるスピードの幅の広さ、変化し易さなどなど、もちろんどの程度の大きさの文字を書くのか、どのような書体にするのかはあるにしても、筆の選択は、バランスの問題だ。

そして、微妙にバランスがとれ、指先から現れたものを、自分が楽しむことができたときにはとても嬉しいものがある。

 

 

 

  

 

 

2009.12.29 試している

 

今日はいたち毛の大筆で、書いてみた。半紙8文字の大きさで書いているが、1文字でも書けるような筆である。見た目は羊毛筆とさほど変わらない。早く書けることが大きな違い。書く文字の大きさに比べ筆が大きく、力加減が難しい。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

2009.12.23 試している

 

今日は、細光鋒の羊毛筆で智永の千字文を臨書している。そして腰がない筆を使う意味を考えている。が、分からない。しばらく、使うことになるのかすぐに飽きが来るのかも分からない。

しかし、この筆にどんな意味があるのだろう。

こうなると、おそらく、次は、・・・・ということになってゆくのだろうな・・・

 

 

 

 

 

  

 

 

2009.12.20 こういう書を避けて、古典書法では?

 

韓国のドラマ、商道というが、そのドラマで、主人公が、復讐のために、身を寄せていた寺を出る場面で、和尚さんが、

私は、千の剣を持ち、人を生かすことも殺すこともできるが、おまえは、人を殺す剣一つだけだ。

とうことようなことを言っていた。心惹かれ、書にしてみた。右の書がそうである。

 

まるで、近代の書た。こういう書を避けたところから、古典書法へ進んだのではないか?とこのホームページをある程度読まれた方は思うかもしれないが、たしかに、そのとおりであったような気がする・・・・

 

ところで、日本で好まれる高級な筆に、細光鋒の羊毛筆がある。

筆先のききを利用して、ひらがななどを書くのによさそうであり、また思いどおりに動かすことが難しいところを、毎日の練習によってなんとかする筆と考えて、独学の時に、かなりの時間使用した。

古典書法を始めた頃は、これでは線の四隅を意図した形にできないと考えて、その後、寄りつくことがなかった。どちらかというと毛嫌いしていた。

千の剣の話しが気になり、なにか使いようがあるのではないかと、今朝考えて、さっそく、久しぶりに、しまい込んでいた細光鋒の羊毛筆を出してきて使ってみた。

今であれば、先のききがある範囲では、いたちなど腰の強い筆で書いた書と同じような線質で書くことができる。楷書を書けないこともない。ただし、線の太さは、腰の強い筆に比べると、例えば半分程度までが限界だ。

しかし、この羊毛筆は、腰の弱いところが特徴なのではないかと指先が考えたので、遊ばせてみた。右の書がそうである。楽しいものがあった。。

これで書道独学期間に戻ったことになる。が、通ってきたところがそこあるいはここに見え隠れして、なんとなく千の剣の意味が理解できるような気がする。

書とは別な日常で、書と同じことができればそれを楽しむことができるということになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千剣

 

無力

 

 

 

 

2009.11.28 写真

 

どちらかというと、カメラを持ち歩くのは、好きなほうではない。

雰囲気、景色を楽しめなくなるような気がしていたためである。

しかし、嵐山、嵯峨野、清滝は、よく散歩するところでもあり、気がむいたときには、カメラを持ち歩く。ちりもつもればなんとやらで、とった写真を眺めていて、気づいたことがある。同じようなところで、同じようなアングル位置関係で、写真をとる場合が多いということである。時には、びっくりするほど、正確に一致している。そして、なんとか、その場の持つ良さを、写そうとしている。

散歩するすべての場所が、お気にいりというものではなく、特別に、気を引く場所というのは、点在している。カメラは、そういう場所に、向けていることが多い。

さらには、ある場合は、写真が、その場の良さを、具体的に教えてくれる場合もある。

写真は、記録というよりも、芸術として、楽しむことが可能であることを、実感として、理解できた。

 

韓国の鶏龍山近くに、家を持っている方に、鶏龍山付近にも、こんな感じのところがあるのではないかと、説明するために、よく散策するところの写真をとってみた。参考までに紹介する。散策

 

 

 

嵐山渡月橋近く、黄昏時

 

 

2009.11.01 伝

 

 

ひらがなを書いていて、古典書法を、どのように使うべきか理解できた。

「伝」中国式と左で紹介している書は、草書を書くときに、最近まで、多用してきた筆使いで書いた書である。古典書法の基礎が、分かりやすい形で表れる。趙孟ふの楷書でもみることができるものだ。

「伝」和様は、自由に楽しんで書いた書である。こんな風に、遊んでいると、思うことがある。小野道風の書である。「伝」和洋と、同じ筆使いが含まれているのか。

古典書法を習い始めた頃にも、古典書法が含まれているのか確かめているのであるが、このようなところまでは、自分自身も理解できていなかった。これで、小野道風と古典書法との関係が、さらにはっきりする。

 

備考:

今日の雑感の理解のために、左に、臨書用として「九」を掲載する。隅隅まで、似せるようにして、書いてみていただけると、古典書法と出会うことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「伝」中国式

「伝」和様

 

 

2009.10.18 お久しぶり

 

こうして、雑感にものを書くのも、2か月ぶりである。

京都の愛宕山、中国の天目山そして韓国の鶏龍山、近辺は、かって、陶器と書などの文化、そして、宗教と政治とで、密接に結びついていた。そして、山の民が好む場所がそれぞれどこかに、あり、それは、どこか似ている。

という、考えをもっている。いわゆる、仮説である。もともと、愛宕山は、空海の書を調べるうちに、興味をもったところであるが、ここの近くには、すでに、書を置くことができている。鶏龍山の近くには、この夏にできた縁によって、書をおくことが、できそうだ。天目山は、この秋に、これは、一時できであるが、書を送る。いずれも求めて、そうしたわけではなく、偶然である。

愛宕山のすそ野に流れる清滝川の近くに、よく散歩に行ゆく。中国の天目山そして韓国の鶏龍山には、そのうち、いってみようと考えている。清らかな水が流れる渓流があるはずだ。

 

いまは、草書を手習している。ひらがなを紹介するのもその流れである。しかし、今日、楷書と草書がつながった。

 

楷書は、一番後からできた書体であり、書の基礎であり、応用でもある。

どうも、草書は、リボンのような線になり、しっかりとした骨格に、しなやかな筋肉を身につけたようにならず、不思議に思ってきた。

それが、筆使いを工夫することによって、指先的には、楷書を書くのと同じように、書く方法を見つけた。ただし、そうは、いっても、横画は、自動的に筆がすすむような感じが強い。

これで、楷書と、行書及び草書の違いは、形であり、指先の感覚としては、同じものである。こういったことは、求めて、見つけているのではなく、とにかく、、毎日、筆をとることによって、その時になると、分かるという感じだ。

自分の中では、今日は、とてもめでたい日だ。

 

 

 

 

 

 

 

知永、千字文の臨書

 

 

2009.08.19 かすか

 

ひらかなの善さを探している。今日は、じゃあ、書かなければ、と思うほど、かすかで細い線が、しきりに誘ってくる。

試されているのか? 思い惑う、これは、楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.08.16 意識は、鈍感。

 

 

今日も、かな書を紹介する。昨日より、まだ、手指が動いていていないところもあるが、こんな感じで、進んでいくのでないだろうか。一番上は、感じとしては漢字を書くようにして書いた。これ楽しい。

そうそう、いずれも、和漢朗詠集の秋の和の歌である。

貴族、いまで言えば、政を担当する人たちの教養としたところと思うと、なんとも、余裕のある時代である。この頃に、源氏物語が書かれている。

 

しかし、考えてみれば、ひらがなの形を決めたのも、それほど前のことではないが、実践に突入中だ。

意識で、考えると、違和感があるのだが、このあたりであれば、はるか、いにしえから、書いていたような感覚で、手指が動く。

よし、今日は、書は終わり、なにか別なことで、遊ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.08.15 かな

 

 

和漢朗詠集の和の歌を、始めは、楷書風に書いていたが、徐々に、指先が動いいて、行書風そして、最後に、草書風になった。

和歌も、古典書法と同じ、歴史の中で、この場合は、感情を、流しているようだ。そうであれば、和歌をかなで書く場合、指先の感情に、まかせた方が、よさそうだ。そう、書いていて、指先がしっくりと感じるほうへ進むのである。

しかし、流すのであれば、普段見慣れている渓流のように、もっと変化に富んで、流れても、よさそうだ。

話しはかわるが、最近、韓国語をならっているが、言葉が、自然に口を衝いて出る方法を、一つ見つけた。これを、応用すれば、和歌が、自然に口を衝いて出るようにすることも、できるのではないかと思い、さっそく、今日から試している。

自然に、歌が溢れ、見慣れている渓流のように、指先が流れるというようになれば、うれしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

粘葉本和漢朗詠集から

 

 

2009.08.14 ひらがなで和歌を書く

 

粘葉本和漢朗詠集を参考にして、決めた形のひらがなで、和歌を書いていた。連綿から、始めたが、どうも、まとまらない。

かなであっても、ひとつひとつは、漢字がもとになっている。決めた形も、王羲子の文字に近い。そして、筆の使い方が違う。

粘葉本和漢朗詠集風であっても正解があるような気がするが、とりあえず、先ほど、ひとつ、かな書の方向を決めた。これであれば、漢字を交えても、形になる。

右の書が、決めた方向である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.8.11 ひらがな

 

草書を手習いしているので、ひらがなの形を、筆使いに、合わせて、決めてみた。以前も、試みたが、最後までは、完了させることができないでいた。

今日は、2、3時間であろうか、すんなりと、形を決めることができた。

筆の大きさ、連綿などを考慮して、微調整するところもあるが、ほぼ、決まり。なんだか、あっけない。結局は、王羲子が書いた文字に、近い。ただし、現在、見慣れた形の範囲に収まった。

手指の感覚で、自動的に書くことができるレベルとなったら、なにか、書いてみる。

今、こんな感じのもののほうが、楽に、書けるのではと思いつき、家の中を、探すと、そのような筆が、でてくる状態にある。ひらがなを書くために、筆を変えてみた。漢字も柔らかな感じで書くことができそうだ。

粘葉本和漢朗詠集を臨書のために、使用していたが、これからは、決めたひらがなの形を微調整をするために使用することになるだろう。

粘葉本和漢朗詠集は、十一世紀中葉に、書かれたものと推定されている。筆先のききを利用して、書く書である。筆者がここで紹介している古典書法とは、異なるが、筆を使い書くことの、ひとつの到達点と感じることができる。

中国から伝えられたものを、別な形で、昇華している。筆で書かれたひらがなからいうと、このあたりが、日本の文化の頂点である。

 

 

 

 

 

 

2009.07.05 がんばっている。

 

久しぶりに、書のことを、書こうと思う。

実は、一月ほど前から、韓国語を習っている。

なんとか、先生の意向に添えるべく、無理とは、思いながら、必死に、ペースに乗せるために、工夫を積み重ねている。古典書法を始めてから、始めてではないだろうか、家にいながら、筆をとらない日が続いていた。

韓国語を習う動機は?という声が聞こえる。韓国の焼き物が好きなこと、そして、なにか、韓国にあるような気がしていることが、理由であろうか?なんというか、韓国へは、そのうちに、なにかを探しにいく必要があると、漠とした思いがある。

書は、手、指先の運動でもあるが、言葉を、話すということであれば、口と舌の運動であるということが実感として理解できた。短いフレーズの場合、2週間ほど、繰り返し聞き話すことで、日本人なまりではなく、韓国の人が話ように、話すことができることも分かった。一週間に一回のペースで習っているのであるが、それにしても、単語、文法、読んで、訳して、書いて、話してと、同時進行である。課題が、毎回、増えてくる。はて?どうしたものかと思案しながら、必死で、工夫している。

まあ、聞いて、真似をして話すのであれば、体の使う部分は違うが、書の応用で、何となく、回路ができているので、楽で楽しいのであるが、・・・。もうしばらく、言われるように、あまり、希望をせずに、先生のペースでがんばってみる。

 

さて、草書であるが、ある部分の形が、どうしても師と同じように書けないので、先週の土曜日に師に聞いてみた。そう、書については、あまり聞くことはせずに、書いているところを見せていただいて、盗むようにして見て、家に帰って、真似をするという感じで、手習いをしてきた。尋ねること自体、希なことである。

昨日と、今朝と、聞いたところを、自分なりに、工夫していた。起筆のときの、筆の角度を、少し、工夫することで、今まで、真似できなかったところが、真似ができる。そして、小さい文字を書くことが、だいぶ楽になる。

この状態であれば、空海の風信帖を、楽に、似せて書くことができるのではないかと、思えている。まだ、試してはいない。しかし、なんとなくそう感じる。

しばらくは、起筆について、試してみる。

 

 

 

 

 

2009.06.09 iPhone

 

 iPhoneのフリッカー入力を、ブラインドタッチで、練習している。いまのところでは、1分間で、30〜40文字入力できる。

iphoneは、主に、物事を、思索するのに使用している。この程度の、スピードで、誤りなく、入力できるようになれば、満足である。

人差し指を、使用している。ネットで調べると、両手の親指を、使用する方法が、早いようだが、右手の人差し指で、入力した方が、筆者は、具合がよい。

なお、感覚的には、人差し指は、指自体を動かすというよりは、腕を、動かしている。指先に力を、入れないようにしていると、筆を使うときの感覚に、近いものを感じる。

iphoneのフリッカー入力であるが、これは、大きな発明ではなかろうか?画期的な入力方法である。

ちなみに、キーボートは、25年ほど前に、ブラインドタッチを覚えた。要点は、手元を見ない。キーボードの絵を用意して、これをみて、キーを手探りする。毎日2時間、1週間、連続で、取り組むことができる時に、スタートする。入力も、同じ文字ばかりを、入力して、覚えるのではなく、通常使う文章を、あるいは、プログラムリストを、用いる。一週間たてば、手元を目で見るよりも、楽に、入力できるようになる。

 

今回は、毎日、2時間連続でというのはきついので、細切れの時間を利用して、取り組んだ。始めは、頭で、キーの位置を思い浮かべ、手探りして、入力して、というような感じで始めた。今は、入力しようとすると、自然に、その文字のところへ、指先が、動く。

なんというか、今回、このフリッカー入力のブラインドタッチの練習を通じて、脳のフレキシブルさを、実感できた。脳は、短時間で、物理的な構造を組み替えて、新しい行動を、効率よくできるように順応してゆく。

これであれば、体の動きをともなうことであれば、まだまだ、新しいことにチャレンジできる。跳んだり跳ねたりはできないが、そうでなければ、覚えることができるかどうかは、その気になるかどうかだけの話しになる。もちろん、ものによっては、良い先生が必要ではある。方法は大切である。

 

 

 

 

 

2009.05.05 カジカガエル

 

春蘭を、清滝のどこかに、植えようと考えて、清滝川の、向こう側の岸を眺めながら、つい夢中になり、半分無意識で、川へ、少し入りかけていたところ、足下で、ぽちゃりと音がした。

視線を向けると、かえるである。飛び跳ねた後に、川底で、じっとしている。右の写真は、そのかえるの写真である。さてどこにいるのか。

擬態を使っているので、ちょっと目を離すと、再度、どこにいるのか、分からなくなる。

上から、砂粒を、落として見たが、じっとしている。これが、天然記念物のカジカガエルのようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背中に、小さな白っぽい砂粒をのせたカジカガエル。

 

 

 

 

2009.05.06 iPhone

 

パソコンと言えば、PC8801時代から、遊んできた。同世代であれば、早い人は、PC8001から、購入している。

PC8801は、BASICで技術計算、ゲーム、そして、機械語に取り組んだ。年がら年中、暇さえあれば、パソコンをさわっていた。

PC9801になると、世の中の進歩を確認するために購入をしたような感じでとなった。それから、パソコンは、何台か買い換えて、今に至っている。OSとしてはXP止まりである。

 

PC8801のように、興味をもって、夢中になって使用するということではない。

書に取り組んでからは、パソコンに時間を取られるので、どちらかと言えば、必要最小限の使用にとどめて、使用することを控えてきた。

4月の中頃に、iphoneを、調べてみた。店で、説明を受けると、入力方法が独特である。フリッカー入力といって、例えば、「あ」を押して、左横に、指を、滑らせると、「い」となる。「う」の場合は、上に滑らせればよい。

店員さんが使うのを見ると、押して滑らせる動作は1動作に見える。

ということで、にわかに、興味が、湧いてきて、程なくして、iphoneを購入し、そこから、とにかく、iPhoneである。

iponeを、通して、こんなところで、このように世の中が動いていたのかと感心することしきりである。フリッカー入力の、ブラインドタッチも、マスターしつつある。このまま、なれてゆけば、キーボートと同じレベルで、文字を、入力できるようになる可能性もある。

辞書にしろ、なんにしろ、ソフトが豊富で、パソコンに比べれば、価格が安い。ソフトを探して、導入しては、使い勝手を確認するという作業を繰り返し、お気に入りを、集めているところだ。

意外にも、ものを考えるのに、使えるではないか。

しかし、筆者の場合は、これまでのパターンを、反省すると、この手のものは、どこかで、飽きるのが常である。よい関係となるかどうかは、文字の入力の習熟具合、そして、フリッカー入力の限界みたいなところに、かかっている。

 

 

 

 

 

2009.04.26 記録

 

桜も散り、緑栄える季節となった。しかし、今日は、最低気温が8度、最高気温が13度ということで、少し肌寒い。小雨も降りそうだ。苔や、木々の緑が、雨に濡れると、しっとりと、艶を帯びる。なんとなくソワソワしてくる。昼から、清滝に行ってくる。

さて、筆者の記録として、さきほど書いた書を掲載する。呻吟語の一節だ。

過去の書と比べると、進む方向が、理解できる。ここしばらくは、文字の肉付きに注目してきた。まあ、この方向でよいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.04.11 水墨画

 

 

書と一緒に、山水画も手習いしている。

書に比べると、取り組む時間が、格段にすくなく、興味がさほどある訳ではない。

最近、岩を手習いしている。

山水画をしている方であれば、よくご存じである芥子園画伝を手本としている。

これは、中国の本であるが、版画であるため、画には、濃淡と筆のタッチは、現れていない。

師からは、前々から、芥子園画伝には濃淡と筆のタッチが現れていないと教えていただいていた。しかし、岩を、集中的に書くまで、本質的なところに気づくことができずにいた。

なんとも、写実的に、現すことができる。しかも、写したわけではなく、これは、あくまでも、イメージで、頭の中にあるものである。

こうして、長い時間をかけた末に、西洋絵画と接続した。

しかし、ながら、西洋絵画で紹介した絵は、写真をよく見て描いたもので、鉛筆と消しゴムを使い、書いては消して、描く。

一方、右の山水画として描いた岩は、手本から、適当に形をとった後は、墨の濃淡を使って、感性で、筆のタッチを生かして書く、

現れたものは、似たような感じとなるが、まったく、描き方が違う。

おもしろいというかなんというか、まったく異なる文化が、同じ結果、効果を生み出すことの不思議さに、感心している。

 

 

 

 

2009.03.23 花が蘭

 

 

花が蘭を紹介しようとして、写真を写したが、どうも、イメージに合わない。

天神川沿いの西京極と五条間の桜が、今朝、1、2分咲いていた。春が来ているので、まあ、紹介しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.03.22 古人愛人

 

 

呻吟語より

 

古人愛人之意多 今日悪人之意多 

愛人 故人易於改過 而視我也常親 我之教常易行 

悪人故人甘於自棄 而視我也常讐 我之言益不入

 

古の人は、人を愛するの意が多いが、今日は、人を悪むの意が多い。

人を愛するが故に人は過ちを改めること易く、

しかも我を視るや常に親しみ、我の教えは常に行い易い。

人を悪むが故に、人は自らを捨てることに甘んじ、 

しかも 我を視るや常に讐(あだ)とし、我の言は益ます入らず。

 

(意訳)

むかしの人は、人を愛した。今の人は、人を悪む。

人は愛されるなら、過ちを改め、親しみを持ち、教えられたことを行う。

人は悪まれるなら、投げやりとなり、憎しみを抱き、言うことを、聞かない。

 

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昨日、弘法さんで、東寺にいってきた。骨董品を、見にいったのだが、今回は、骨董品では気になるものはなかった。気が向いたので、盆栽と花を見ることに、時間を使った。

寒蘭と同じ匂いがする中国の春蘭と、葉っぱが見慣れた蘭でないが、花が蘭の蘭?を求めた。花が蘭は、オレンジ色の花をたくさんつけていて、綺麗である。たしか、日本の春蘭の一種と言っていた。(参考までに、蘭は5千円程度で、花が蘭は千円。)

 

寒蘭と同じように柑橘系のなんとも良い匂いがする中国の春蘭は、一茎一花である。蘭は、高潔さを表すものとして、文人画として好まれた。一茎の一花は、人格をもっているように見える。力がある短めの葉がたくさん茂っており、野性的である。椿、柊などもそうであるが、硬い緑色の葉っぱには特別なエネルギーが宿る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.03.14 感謝

衆悪必察  是仁者之心

不仁者聞人之悪  喜談楽道

疎薄者聞人之悪深信不疑 

惟仁者知悪名易以汚人 

而作悪者之好為誣善也

既察為人所悪者何人   

又察言者何心   又察致悪者何由

耐心留意   独得其真

果在位也   則信任不疑   

果不在位也   則挙辟無弐

果為人所中傷也   則扶救甚力

嗚呼 此道不明久矣

 

衆が悪(にく)むが必ず察する。是は、仁者の心である。

不仁者は、人が悪むところを聞き、喜び談じて楽しみの道とす。

疎薄な者は、人の悪むところを聞き、深く信じ疑わず

これ仁者は、悪名はもって人を汚し易く、

そして悪を作(な)す者が、善を誣(し)うるを為すを好むを知るなり。

既に、人の悪む所と為った人が何人と察する

又、言は何心と察す。  又、悪むを致すは何由かを察す。

耐心留意して、独りその真を得る。

果たして、位に在るや 則ち 信じ任じて疑わず 

果たして、位に在らずや  則ち挙辟し、弐(うたが)うなく

果たして、人が中傷するところと為るや  則ち、扶球に甚だ力(つと)む

ああ この道は明らかならざること久し。

 

(意訳)

悪評高い人を、そうであるかどうか自分なりに観察するのは、これは、仁者の心懸けである。悪評を聞き、喜んで、うわさ話を楽しむのは、仁者ではない。

軽薄は者は、悪評を聞いて、深く信じて疑わない。

仁者は、悪評は、人を汚し易く、しかも、人の悪い人は、たとえ善いところであっても曲げて言うことが好きなことを知っている。

それ故、人柄を見て、言葉からその心情を察しそして悪評の原因を探る。粘り強く、注意深く、調べ、その真実を知る。

そして、その人が官位にある場合は、信じ任せて疑いもしない。また、官位にない場合は、推挙して、疑わない。

人に中傷されていれば、熱心に、助け救うことに努める。ああ、しかし、この道は、どこにいったか分からなくなってから久しい。

 

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評判を落としつづけているときに、

このような仁者に出会うことができたとしたら、まあ、それは、幸運以外のなにものでもないだろう。

察しようと、時間を使ってくれるということ自体、得難いことであり、ただ、ただ、感謝する。

 

うーん、今日の書は、そのままで、普段使いである。まあ、こんなところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.03.09 水墨画

山水画も手習いしているのだが、書に比べると、気が進まず、力も入れてこなかった。

今、岩を、手習いしているが、清滝の渓流を写せそうな気がしてきた。雑木林はどうするかはあるにしても、水の書き方を、教えていただける日が、待ち遠しくなってきた。

墨の濃淡と筆のタッチが、わかるように墨と筆を使うのが特徴である。本で知り得る限り、現代の日本の山水画は、水気が多く墨の濃淡はあるが、筆のタッチはわからない。

古典的な山水画、これもまた消えてゆく文化の一つなのだろう。中国でも、状況は似たようなものらしい。このまま消してしまうのは、惜しい。まずは、しっかりと、手習いをして、身につけ、どうにかして、次の世代へつないでゆきたい。

水を描き方へ進むことができた後、清滝の渓流を写して、紹介する。

 

 

 

 

2009.03.08 拠り所

 

約2ヶ月ぶりになるのだろうか、清滝に、久しぶりに行ってきた。仕事で忙しくしていたため、ご無沙汰していた。

椿の芽のつき具合が、昨年と比べると、目立って少ない。茶店で聞いたところ、今までになく、少ないということだ。暖冬のためか。

よく考えて見ると、清滝は、居場所を求め、癒しとして、訪れていた。今日は、心を静めるために、訪れた。意味あいが違う。

水面下で事が起こっていた頃の方が、辛いものがあった。なにかが、起こっていることを、無意識が感じていた頃である。今、はっきりと、状況は、悪い方へ進んだことが分かった。しかし、なにが起こっているか、見えるので、心理的には、楽である。これからも、難しいことが、起こり続けるだろう。受け入れてゆく。

 

さて、呻吟語から、

広所依   不如択所依   択所依   不如無所依

無所依者依天也   依天者有独知之契   雖独立宇宙之内

而不謂孤   衆傾之   衆毀之   而不為動  此之謂男子

 

依るところを広くするは、依る所を選ぶに如かず。依る所を選ぶは、依る所が無きに如かず。

依るところ無き者は、天に依るなり。天に依る者は、独知の契を有す。

独り、宇宙の内に立つといえども、而も孤と謂わず。

衆、之を傾け、衆、之をそしる。而も為に動かず。此を、之、男子と謂う。

 

(意訳)

広く依存するよりは、特別な場所を持つ方がよいが、それより、そのような場所を持たない方がよい。

依存する場所がない者は、天に依存し、そして、独り天との約束を知る。

この世で、独りでいるが、それは独りとはいわない。

周りの人が、これを、傾け、これを、悪く言うが、これによって動くことがない。これを、男子という。

 

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中国の文化に親しんでいるせいか、八百万の神よりも、天を身近に感じる。

反省がないと言えば、それまでであるが、ことが起こった場合は、この呻吟は一つの考えで、実感として、拠り所となるのかもしれない。

それは、そうと、呻吟語を書いて、文書を書くのであるが、なんというか、書を書き上げているためか、文も、筆が進む。

書と文と、車の両輪のような関係で、進んでいるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.03.08 成り行きにまかせない。

 

成心者見成之心也   聖人胸中洞然清虚

無箇見成念頭   故曰絶四

今人応事宰物   都是成心

縦使聡明照得破   畢竟是意見障

 

成心とは見成の心なり。聖人の胸中は洞然として清虚。

ひとつとして見成は念頭にない。故に、孔子は曰く、四を絶つと。

今の人は、事に応じ、物を宰す。都(す)べて、これ成心である。

縦使(たとい)聡明にして照らし得て破したとしても、畢竟、これは意見であり障となる。

 

(意訳)

成りゆきの心とは、見てから成すこころである。聖人の胸中は、清掃した直後の、整理整頓をゆきとどかせた、静かな部屋のようだ。

ひとつも、成り行きにまかせていない。

孔子が意、必、固そして我の4つを絶つべしと言うのは、成り行きにまかせない方法を言う。

今の人は、事が起こったのちに、物を取りしきる。すべて成り行きだ。

例え、聡明で、明るく、事を、突破していったとしても、これは私的な見識に基づいたものであり、所詮、行くことができるところに限りがある。

 

四絶:論語 子罕(しかん)篇に、「子絶四毋意毋必毋固毋我」とあり。私的な考えを持たず、押しつけず、かたくなでなく、そして我を張らないこと。

 

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結果論として、物を言うことをやめ、良く計画を練り、総意として、進めるような方法を、考え、実行する。これは仕事としてすべきことと、作業としてすべきことを分けて、なによりも、計画して進める。時間の使い方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.03.07 空気が澄むような雰囲気の書斎が理想

 

余甚愛万籟無声

蕭然一室之趣

或曰無及大寂滅乎

曰無辺風月自在

 

余は、万籟(ばんらい)声無く、蕭然(しょうぜん)とした一室の趣を、甚だ愛す。

或、曰く、乃ち、大いに寂滅ではないか。

曰く、無辺の風月自ずから有り。

 

私は、物音ひとつせず、シーンと静まりかえった、部屋の趣を、とても好む。

ある人は、あまりにも、寂しすぎるのではないかというが、そこには、月照らす広大な地で、風を感じさせるものが、漂う。

 

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最近は、音楽をかけてしまうことが多いが、必要最小限のものしか置いていない、清掃した、物音ひとつしない書斎というのが、求めるもののひとつである。

ところで、

探したところでは、呻吟語に関する本で、書店においてあるのは、

呻吟語 呂新吾著 守屋洋編・訳 徳間書店

のみである。そこで、

インターネットで、古本屋さんから、求め集めた。

漢文がのっていないのは、つらいものがあるが、とにかく、四の五のと言わずに、、集めてみた。その中で

中国の古典 呻吟語 荒木見悟  講談社

は、漢文も載っており、ページ数が多いのでよさそうだ。

また、

これは、古本ではなく、繁体で書かれているので、台湾の出版社と思うが、

呂坤全集 (明)呂坤選  中華書局

で、呻吟語の原文を見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.03.01 怠忽

 

吾輩所欠只是滋養不純不定故言則失口所発不当事不循物不宜人事即恣意・・・

 

(意訳)吾が輩の欠いているところは、自分を養うところが、的外れで、定まっていないことだ。故に、なにか言うと、それは失言、あるいは的外れ、・・

 

 

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今日は、このくらいにしておくが、これは、耳が痛い。

右は、草書の下書きとして、書いたのであるが、敢えて、草書にする必要がないと、考えてしまったり、油断すると、文字は、型にはまる。呻吟語が言うところの、心を、怠け、ゆるがせにしているから、やり残すのだろう。

沈静が必要であるも、進むためには、必要な時期もあったが、これは、決めた方針と違う。

 

 

 

2009.03.01 これが大切  呻吟語より

人只是心不放肆便無過差

只是心不怠忽便無遺忘

(意訳)

人、心を、放したままにしなければ、過ぎたり、不足したりすることはないし、

心を、怠け、ゆるがせにさえしなければ、やり残したり、忘れたりすることはない。

 

 

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生活信条と両輪をなし、これができなければ、生活信条は、空理空論となる。

なお、右の書は、数日前に、書いたもので、良く指先が動いている。

 

 

 

 

 

 

2009.03.01 信条

「論理言大於信認而任不言我本常遠言於本」

 

信じ認め、理想を言い、広く大きく言い、任せる。

我が個人的に本当と思うところは言わず、真なることを、遠回しに、微かに、言うにとどめる。

 

 

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上記、呻吟語ではないが、生活信条にしてみる。

その心は・・・

隘路を見つけるのは、知的な喜びである。正しく隘路であったとしても、そうでなくとも、折角の機会である。これを、奪うことは、組織上、長期的に見ると、良いことではない。真なることも難しいが、それに近づくために、現場を見ることを、日課としてみる。

 

 

 

 

 

 

2009.02.26 水面下

 

「見見非難而見不見為難」

見えるところを見るのは難しいことではない。見えないところを見るのは、難しい。地下の水脈にように、つながることも不可能ではない。

 

隘路を感じ、手を打つ。これは、我が癖である。

「人一生大罪過只在自是自私四字」 (呻吟語より)

人の一生で、大きな罪は、もとからもっている是、そしてもとからもっている私、ただこの4字をもって、やり過ぎることである。

自己肯定そして自己弁護に過ぎるのは、大きな罪である。

特殊な趣味を持つ人が感じる隘路であり、人によっては、まったく違った姿に見えていることであろう。

 

 

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なんとなく、ここのところ、仕事に忙しく練習不足である。書に現れている。

 

 

 

 

2009.02.23 生きている

朝鮮半島の、古いものであるが、木製の茶入れが手元にやってきた。小型の筆筒としても使うことができる。

楕円系の筒、下、中程、そして上の方に、鉄の帯状の輪がはめ込んである。楕円といってもいびつな楕円、鉄の輪も、いびつであるが、木の筒とは、びったりとはめ込んである。いびつどうして、ぴったりとはまっている。漆を塗っていいるが、木地自体が、軽くでこぼこしている。いい加減であるが、それゆえに、これは作るのが大変そうだ。自然さを生かして、手間暇をおしまずに、形にしてゆくということなのであろう。

いい加減な蓋もついている。物ではあるが、生きているようだ。

こういったことを好むこと自体が、いまここでは、特殊な感性なのかもしれないが、なんというか、こういった物が手元にあると癒される。それ故、筆者もこういうものを、この世に、数多く生み出したいと切に願う。

 

 

 

 

 

2009.02.16 再生

肩に重くのしかかっていたものが、下りた。3年ぶりである。

耐えたものはなにか。そして、怠けたものはなにか。

得たもの、失ったもの、しかし、今、本来の俺の姿がここにある。

今日見た,みんなの目を忘れないことである。こんな状態となった俺を、精神的に、頼りにしているではないか。裸である。

そして、横たわるこれからの現実。これからである。一つ一つ、形になって、現れてくる。ここ、1ヶ月半で、今後の、10年が、決まる。

今を、積み重ねる。

深険を止め、事勿れを止める。

なぜ、導けなかった。浮かんでくるのは、憐憫。

耐えすぎるのも悪い。言葉にできないのも罪である。

とにかく、今宵は、亡き母が平成5年に漬けた梅酒を飲み、自分自身を慰労する。

なぜか、思い出す。言葉を交わすこともなく、いろいろ良い影響を与えてくれた人たち。感謝。しかし、それにしても、会いたい。

 

さて、明日へ向かうことにする。

 

 

 

 

2009.02.14 大を養う

自家好処掩蔵幾分

這是涵畜以養深

別人不好処要掩蔵幾分

這是渾厚以養大

 

(意訳)

自分の好ましい所は、つつみ隠して、少しずつ、これはこれで自然に水がしみ込むように徐々に養うことで、深めてゆくものである。

他人の好ましくないところも、つつみ隠すことが必要である。少しずつ、これはこれで、補うように手当てすることで、なにか、大きなところを育てる。

 

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「大を養う」を、各人の長所をもって、組織を作ると解釈するならば、これは、組織論となる。

ちなみに、今日の書あたりが、今時点、自然と書くことができる書である。

 

 

 

2009.02.09 道理

事事只在道理上商量

便是真体認

 

(意訳)

何事も、道理に沿って、もの事をはかることができる

というのは、これは、経験によって会得するものである。

 

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「体」という文字は書きにくい。筆をあまり使わなくなってから、できた文字であろう。

筆の道理に沿わない。こういったことは、筆を使い文字を書いていると自ずと感じることができることである。

さて、今日の書は、こんな風である。

 

 

 

 

 

2009.02.07 道

 

道莫要于損己学莫急于矯偏

 

 

(意訳)

道は、自分を損なわないと、進めない。

まっすぐ、中程を、進むために、急いで、学ぶ必要がある。

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ディベートに勝つことを急ぐあまり、豚を空にとばしている人を、時に見かける。

それが芸になっていたりすると、なおさらのこと、始末に負えず、関わりをもった場合は、あきらめるより、他に仕方がないことがある。

まあ、長い目でみれば、自分が本来もっているところに、落ち着くだけのことである。今に、汲汲する必要はない。ただし、これは、勤勉な人にのみ、言えることであろう。

 

2009.02.02から古典書法8年目に進む。仕事が忙しく、記念日に、ホームページを更新することができなかった。

この年は、指先が進む方向を見守りたい。どこに進むのか、楽しみである。