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あめつちにふるえる

  愉森住人

 


2006.10.15 左大文字

先週は、奈良の三輪山と明日香村に行ってきた。

今日は、銀閣寺の裏手の山を登ってきた。阪急河原町駅から、知恩院、南禅寺、哲学の道を通り、少しだけ、法然院に寄り道をしてから、銀閣寺へ向かい、急ぐ散歩でもないので、山に入ってみた。五山送り火の左大文字のちょうど一番上あたりまで登ったが、秋晴れで、すがすがしい風が吹いていた。今でも、気分がとても良い。

下の写真は、そこで雲に乗りながら写したものである。

 

 

 


2006.10.17 巻向(まきむく)

先週、奈良の山辺の道、巻向に散策に行ったが、写真は相撲神社付近で撮影したもの。

 

 

 

 

山辺の道は、桜井から巻向まで散策した。そこから、明日香村を訪れた。写真は高松塚古墳付近で撮影した。ビニールハウスのようなものは、カビ問題で、修理を行っているためのもので、ここが高松塚古墳である。

 

 

 

 


2006.10.03

俳句であるが、気分は万葉集。

我ながら気持ちはまだまだ若いと思う。秋が来れば、それなりに感じるものがあるように、いつになってもかもしれない。まあ、自然に浮かんでくる感情なので、自然現象。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2006.10.01

今日は、傘を持たずに、朝早く散歩にでかけたのだが、途中雨が降り出した。

昨日までは、さわやかな日が続いていたのだが、今日は、少し肌寒く、秋が深まりつつある。

 

 

 

 

 

 

 

 

08.21 2006.08.穫そして静かな幸せ収穫そして静かな幸せ

 

 


2006.09.31

 

 

 

 


2006.09.27

最近、涼しくなりすごしやすい。ちょうどよい加減である。

話は変わるが、まあ、鉛筆でも良いのだが、とりあえず万年筆でひらがなをかくことにおもしろさを感じている。

俳句は楷書とつながるところがある。文字数の制限のなかで、なにやらを表現する。一見不自由な中に無限の自由が潜む。楷書は、一見、形式のみと見えるも、その中にあらゆる可能性が混沌として潜む。

ペン字は、筆でかく文字の裏返し。筆を持つ場合と、万年筆を持つ場合とでは注意深く、筆記具と指先の接触するところを違えているが、見つけた方法によれば書きごこちは一緒であり、筆で楷書を書くことが、そのまま万年筆でひらがなを書くことの練習を兼ねてしまう。

もちろん、万年筆でこんな感じで文字を書くことは日が浅いためもあり、ぎこちない。それでも確かにつながっている。今年の3月30日頃に、万年筆の気分は古典書法的な使い方を見つけたが、それが今、俳句である。

興味はあったが、自分でも俳句をするなどとは思ってもいなかった。したがって、俳句の内容をひねり出しているのは、手ということになる。

楷書からの類推でいけば、おそらく、俳句は、そのうち、短歌や詩もひねり出すことになる。

(何日かたつと、最近紹介した詩は恥ずかしくなると思う。所詮、我流で、始めたばかり。困ったことに、今は見えない。これもまた書と同じ。ちなみに、俳句の心を知ったのは、李御寧氏の書いた本からである。)

 

 


2006.09.22 常識、時に困ったもの

韓国の方に俳句の良さを教えていただいた。もっとも、「俳句で日本を詠む なぜ「古池の蛙」なのか−日本人の美意識・行動様式を探る 李御寧 PHP」という本にである。

本は比較的良く読む方だと思う。ただし、手元に残すものは読んだ本の1割もない。この本も十数年前に購入して読んでいた本であるので、残しておいた数少ない本の内のひとつである。昨日、読み返してみた。

常識というのは時には考えることを妨げるものでもあるようだ。どうやら、俳句は歌であり、季語にそれほどとらわれる必要がないようだ。確かに、「古池の蛙」に季節は大した意味を持たない。

そう思ったとたんに、今日は、手が歌いだした。お恥ずかしいも、心が自由になったような気がして、なにかうれしい記念である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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