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from 乙酉青陽  研賜

陰陽の渦旋

古典書法における陰陽

柔と剛 呼気と吸気 そして気韻生動

唐代の書法

墨の力

欧陽詢楷書

工学と書法

顔真卿楷書

幻視

顔真卿行書

神髄

そして懐仁集字聖教序

摂理

 

 

生の意味を求め、混沌より、陰陽の渦旋を生み、行い進む

思いは、意志により、陰陽の混沌となり渦旋する

今この瞬間において、取り出すことができる行いはただ一つ

易とは、

思いを行いに変える意志であり、瞬間であり、方法である

機を感じ、とらえ、応じる行いであり、

結果を瞬間的に感じ、意志と思いに反映させ、直ちに次に進むことである

 

 

 

古典書法 

ここに思いあり、意志により渦旋し混沌となる

混沌とした墨は瞬間瞬間にその状態を変え、定まることはない

墨は思いとなり、指先と交感する

渦旋する用筆は、機を感じ、機に応じ、混沌から一つづつ思いを引き出し続ける

思いが無限に連なり現れ、墨跡となる

そして、墨跡中で、気韻が生動し、見るものと交感する

その結果を感性に蓄積し、また進む

 

 

 

 

 

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古典書法における陰陽

陰陽が行い進むために存在するところから言えば、古典書法に取り組むことは表現することであり、陽の行いである。ただし、表現の仕方に陰と陽があり、書き残された墨跡は、その痕跡でもある。この痕跡は墨の色のように、混沌を含み、場を創り、気韻生動し、見る者と交感する。

陰の表現は、エネルギーの吸収の、陽の表現はエネルギーの放出の現れである。

そして、陰の表現は、陰の思考回路を、陽の表現は、陽の運動神経と思考回路を生み、生み出された運動神経と思考回路は、陰の行い、陽の行いを生み出す。

陽が陰と陽を生み、そしてまた、陰が陰を、陽が陽を生む。そして生きているかぎり無限に続く、陰陽の渦旋。

より善く、少しであっても前に進めるかどうかは、善い身の動かし方をしているかどうかのみ。

古典書法における混沌は、陰陽を生み出す筆の渦旋運動である。

混沌の中から、陰陽、現れる。
渦旋する用筆、混沌となり、陰陽を生む。
陰は内にエネルギーを蓄え、陽はそれを使い、外に向かう。

自分の心の中に内在されたもののすべては、直観、感情として現れる。古典書法においては、現れた直感、感情を瞬間的に理に照らし、論理とし、指先の動きとする。

古典書法に取り組むことは表現であり、陽にある。

しかし、墨跡の残し方に陰と陽がある。

陰は、静、蔵、内、包情、随型、遅

陽は、動、出、外、表情、自由、速

指先は、指先の動かすことに関係している脳細胞そして運動神経により動く、しかし逆に、指先を動かすことが、脳細胞と運動神経に影響を与え、脳細胞と運動神経を創る働きをする。ここにおいて、行いがわが身と心を作り、作られたわが身と心が行いを生みというように、渦旋する。表現をより善き方向に進めることができるかどうかは、善い指先の動きをしているかどうかのみに依存している。


陰と陽の競い合いに、身と心が巻き込まれ、深化する。

自分の考えも、表現も渦旋する。古典書法によって蓄積したエネルギーによって渦旋し、いたるところで同じことを違う言葉で表現する。

古典書法によって筆を使うことが、キーボードを叩くことによって形作られる現代的な思考に貴重なものを付け加える。

 

柔と剛 呼気と吸気 そして気韻生動

柔はエネルギーを吸収する本質である。

剛は、エネルギーを放出する本質である。

吸気は柔らかに弛緩する筋肉と共にある。吸気は陰にある。

呼気は剛る胆力あと共にある。呼気は陽にある。

吸気呼気は用筆と共にある。渦旋する用筆は、陰陽共にあり、陰陽を生む。

往は呼気であり、気を生み、復は吸気であり、気を閉じこめる。

気は墨となり現れる。

そして、紙の上で、気韻が生きて動く。

 

唐代書法

唐代の書法は、書法と易と陰陽の関係を強く認識させてくれる。中国の文化は、それまでにも、書法と共に歩んできていることを考えると、易と陰陽は、書法が生み出したものとも思われる。

「易」、「陰陽」、「古典書法における陰陽」のいずれも古典書法に取り組むことからら得られた感覚をもとに書き表したものである。

そして、古典書法と易と陰陽を考えると、唐代に現れた書法というものはとても興味深い。

唐太宗は、陰の典範と陽の典範を、伝説とともに世に残したと言える。

そして、懐仁は、混沌を、なにも語らずにこの世に残したと感じることができる。

唐代に陰陽、混沌として示された書法は、今の文字文化に対しても、色濃く影響を与え続けている。

唐太宗598年に生まれているので、今年で、1407年であるが、古典書法に取り組む限りにおいて、時というものは、長いも短いもなにもない。永久に現在である。

 

欧陽詢楷書

古典書法より、主として、蔵鋒で書かれている。力は内に向かい、文字を引き締める方に働いている。直線的な線が多くやや反る線も見える。静的かつ理性的な印象を与えるが、よく見ると不安定ともとれる厳しいバランスの中で文字が成り立っているため、静の中に動の兆しを感じることができる。また、太い線が多いため、堅い印象が和らいでいる。息使いは、内に向かった強いものが必要である。

 

顔真卿楷書

古典用筆により、主として、蔵鋒で書かれている。力は外に向かい、文字を大きくする方に働いている。向ながら、円弧を描く線が特徴で、柔らくかつ豪快な線である。太い息使いで書くことができ、楷書であるが、臨書しているとやや気持ちが外に発散される。東方朔画賛は、型から離れようとする力が随所にみられる。

顔真卿行書

古典用筆により、主として、自然な指の運動に任せた相当に速い筆使いにより書かれている。これも力は外に向かい、線は、力強く、円弧を描くことが多い。全体的な印象は、動、剛そして奔である。

墨の力

中国の古典の真跡をいくつか見たが、墨の力が際だっているものが多いという印象を持っている。

黒々とした墨色に対しては、奥深いところにおける得も言われぬ力強さのようなものを感じる。おそらく、墨の力は、陰陽の基、混沌の内にある物という気がする。

そして懐仁集字聖教序

名家が臨書した蘭亭叙を見ると、どちらかと言えば、繊細で陰に見えるが、懐仁集字聖教序は、陰陽どちらも含み混沌としている。用筆においても、まさに生きて動くことを求められる。懐仁集字聖教書を学ぶことにより、用筆は渦旋を始め、陰陽を生み出すもと、混沌となる。

懐仁集字聖教序における王羲之はまさに書聖である。

 

 
 

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陰陽の渦旋

混沌の中から、陰陽気となり現れる。

陰、エネルギーを吸収し、陽、エネルギーを放出する。

陰陽より立つ気は、相応じ、競い、合一そして分離を繰り返しながら、創造を推進する。

思いは、心身により行いとなり現れる。行うことで、心身が作られ、そして作られた心身が、行いを生む。

善い行いは、善い心身を作り、善い心身は善い行いを生む。そして渦旋し、なにかに向かって進む。

心身は、月で憩い、太陽に向かう。地で安らぎ、天へ向かう。風で冷静となり、火に向かう。

悪い意志は、悪い行いを生み、そしてその行いが、悪い心身を作る。悪い心身はさらに悪い行いを生む。行いと心身は競うように自己破壊へと向かう。

はて、善は、陰にあるのか、陽にあるのか。そして、悪は、陽にあるのか、陰にあるのか。

善い意志は、悪い結果の中から、善いものを見い出し、そして、前進する。
悪い意志は、良い結果の中から、悪いものを見い出し、そして、また進む。
善悪、渦をなして、混沌となる。渦の中に、渦があり、またその中に渦がある。

そして、善悪競うように、勢力を争う。善悪相対、また善は悪となり、悪は善となる。

なんと恐ろしい。どちらが残ると言うこともなく永遠に続く。

(徳が必要である。混沌は可能性のあるものすべてを生み出す。単なる言葉遊びをしているつもりはない。実際に思い当たるところもある。)

(ここまで書き、欧陽詢九成宮醴泉銘の臨書をした。すると、実感として、古典書法は易そのものであることに気が付いた。)

陰陽は、善悪とか徳とは無関係である。陰陽は、行い進むための理論である。

陽は、陰のエネルギーを受け、外に向かう行いであり、変化し、動き、物事そして現象を見て触れて、調べ、分けて考え理論となし、そして、進む。どのような手段を使うことも可能で、与え、教え、時には闘いながら進む。これに偏れば、現実から離れ、自己を時には関係する人を、消滅させる。

陰は、陽のためエネルギーを蓄積する。内に向かい、止まり、時には止める。定まっていて、静かであり、安息し、心身を労る。他人を思いやり、和合、融合する。得て、蓄積し、自らを省みて、修身に努める。しかし、これに偏り、行うことなければ、現実から離れ、いつしか、自分を見失う。

徳ある善い意志により、善い動きで行うことを止めない。陰陽競うように渦旋し進む。

行き着く先は、生きる意味

 

摂理(善き動きに内包されている深淵な意味)

強靱な意志は、極限まで生理的欲求を抑え、容易に自分の身を痛めることができる。

逆に薄弱な意志は容易に生理的欲求に従いこれも自分の身を痛める。

いずれも大切な自分を痛める悪い行いである。心と体が調和していない。

善き文化を成立させる動きを修得することはとても重要である。

深遠な文化を創り得た動きの中には、人の英知の真髄が静かに隠れ済む。人ひとりがその一生の中で試行錯誤したのでは決して到達し得ない物が存在する。

その動きを習い、繰り返し繰り返し練習し、微妙で繊細なところまで修得する過程において筋肉に、神経に、脳細胞にその真髄がしみこむ。

歴史の中でその善き物を作り出した人々の、維持継承した人々の、発展させた人々の息遣い、姿勢が、物の考え方が、この身に移る。

歴史が長く多くの人々に影響を与えてきた動きであるほどに、それを駆使できた人は、高い次元で心と体が調和する。

自然は、水が高いところから低いところへ流れるように、宇宙の摂理に従い、存在するもの相互に関連し無理無駄がない。

人の行いも本質は同じである。

自然の摂理が身の動きとして現れるように筋肉に、神経に、脳細胞に覚え込ませる。川を良く知れば、川の流れのように、思い行うことも可能となる。

 

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追記:工学と書法

工学というのは、思いと現実の橋渡しをする学問である。

そして、書は、頭の中にある考え、イメージを、紙の上に文字として現す。

考え、イメージが思いで、文字が現実である。橋渡しをするのは、筆というよりもそれを使う指の動きである。

つまり指の動きが工学であり、書の場合は、書法となる。書法の意味するところは書作品を含んでいるが、指の動き、動かし方と捕らえると本質が見えてくる。

従って、工学部出身の技術者としての仕事もこの趣味も、行っているところの本質は同じ。互いに、影響させあい深化させたいものである。

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幻視(思いが行いとなることについて)

思いは、行いの種となり、吾が身の大地で、眠る。

吾が意、気となり、大地より天へと向かう

天の意、気となり、吾が気へ向かう。

吾が気は、天の気へ、天の気は、大地へと、そして、衝突

気は渦巻き、変幻自在にゆらぐ。

渦の中には、渦があり、またその中に、渦がある。

無数の渦、混沌の中、極微の渦の中心に、微かに水が現れる。

無数の極微の水、渦巻きながら、急速に雨粒となり、大地へ降る。そして、種を潤す。

種は、行いとして、大地より芽吹く。

天の恵み、人の恵み、吾が努力が、芽吹いた種を、草として、木として育み、森を作る。

そして、森が、吾が心身を養い、善き思いを育む。

そして、また、意が、気となり、・・雨となり、・・、無限に循環し、遂には、とても善い物を生み出す。

 

 

 

 

 

神髄(隠された善き動き)

英知溢れる善い身の動かし方は、確かに存在する。

結果は目にできるが、巧妙に隠れ隠される。

しかし、例え目の前に在ったとしても、心に察知するものがなければ、それと気づくことはできない。

それは創造の泉である。

それを修得すれば、自然のように人々が感動する善い物を創造できる。

善い身の動かし方を修得しなければ、善い物を、すばらしい自然を見て心を養っても、善い行いを積み、人格を高めても届かない。見る目を養えば養うほど、自分の生むものが、善い物から遠ざかることを知る。

善い身の動き、それを日々修練すれば、少しづつ着実に静かな心が訪れる。呼吸が、姿勢が整う。自然と生活を正し、心身に健康が訪れる。身が心が善い方へ変わる。

ますますもっと善い物を、善い自然を欲する。まるで喉が乾いているかのように。そして見た物、感じた物を心の中で、身の中で昇華させ、身の動きにより表現を始める。

心の中に淀みなく思いが浮かぶ。淀みなく身が動く。そして善い物として現れる。神秘的ですらある。

さまざまな分野において、隠れたあるいは隠された善い身の動きが存在する。難易の差はあるが、一見容易に見えても、行うことはできないが、歴史の中を含めてそれを駆使できる人がいる。

そういった動きは、習うとしても、自分から主体的に求め修練し発見するのでなければ永久に存在すら分からない。

 

 
 
 

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