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藤原道長御堂関白記(みどうかんぱくき)

from 乙酉青陽  研賜


 

藤原道長の一般的な紹介

藤原道長(966−1027)は関白兼家の子。娘らは、一条天皇、三条天皇、後一条天皇と三代の天皇の皇后となった。

御堂関白記は、1004年藤原道長39歳の時のもの。

若年から剛毅で、富貴と権勢とを思いのままになったが、晩年は、死の恐怖からか、阿弥陀如来を頼むばかりであったと言われている。

ファーストインプレッション

その筆跡を見ると、やわらかく和様の典型であり、ひらがなと漢字が見事に融合している。

日記であるためか、飾りのない自然な書きぶり、不自然なところがこの書に関しては見あたらない。墨が薄いところが気になるが、王羲之の漢字を和様化して使いこなしてもいる。

勉強の仕方、異文化の取り込み方、ひらがなが新しく起こり完成に向かう時代にあって、自然な筆使いで使いこなしている。当時で言えば最先端のところにいることになるとも考えられる。模範とすべきところが多い。

藤原道長は、書から考えても、日本と時代を創造した人物であると見える。

この頃

996年頃 清少納言「枕草子」の一部が完成

1002 紫式部「源氏物語」の一部を完成

 

当時は、文学は、筆で書かれるはずであるから、文字の書き方つまり指先の動かし方と文化の関係は興味深い。

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藤原道長御堂関白記一部

 

 

藤原道長御堂関白記部分拡大

 

 

 


 

ファーストコンタクト

昨日と今朝と藤原道長御堂関白記のひらがなを臨書してみた。藤原道長へのファーストコンタクトである。

研賜臨藤原道長御堂関白記一部

 

 

 

 

 

藤原道長御堂関白記部分拡大

 

 

 

 

藤原道長御堂関白記の文字は小さく、ひらがなはほとんど書いたことがない。臨書ではあるが、実際は書き慣れるのには2、3日必要であると思われる。文字の大きさを種々変えて臨書し、結果としては、2倍程度の大きさで臨書したものを掲載することとした。

 

臨書した箇所は、1004年2月6日にかなで和歌を書きとめたもので、御堂関白記には、2箇所ある内の一方である。御堂関白記は、ほとんど漢文で書かれているので、さっと見たところでは、ひらがなはこの2箇所のみであり、貴重である。

当時は、宮廷の年中行事が発達し、儀式の先例に詳しく和歌を詠めるものが尊敬され、貴族は日記を付け、儀式を子孫に伝えた。御堂関白記も、この日記に相当する。

 

実は、昨夜は、とても楽しいものがあった。約1001年前39歳の藤原道長と、ものの考え方、用筆、呼吸などについて対話した気持ちである。そして、良いところを教えてもらい、古典書法との違いを確認した。今朝は、昨夜の対話の結果を指先から出力した感じである。

文字の形は、王羲之の型である。古典をよく勉強したあとが伺える。

古典書法に接近している。ひらがなの終筆であっても、気を抜いていない。薄目の墨を使用しているので、終筆のところが少し濃くなっていることで認識可能である。これであれば、書くことが、修身へつながる。姿勢も良く、胆力もあることが感じられる。

決して、感情を古今和歌集の形式で表現するような筆使いとは思えない。

ひらがなは漢字に近く、漢字と見事に調和している。しかも、ひらがなの形の取り方は、華美で流麗なところはなく、あくまで自然な用筆の中で自分の意志の及ぶ範囲で書かれている。思想を生み出すような、微かな毛先からの応答を利用するまでの筆使いは感じることはできない。

全体的な印象は、柔らかで、墨と紙の境界線は端正であり、男の和様である。

日本人が異文化を消化吸収することのお手本になる書であり、本当に相当な人物であったと思う。

藤原道長の和歌として、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしとおもえば」と詠じたといわれているが、感情の制御が認められないこのような和歌を詠うとは、書からは見ることはできない。漢文で記録をするのであるから中国の歴史にも通じていると思われる。栄枯盛衰程度の事は承知しているはずである。

このような人物であれば、感激の気持ちを表すのであっても、それとなくおこなうと思う。

(2005.02.06)

 

讃岐国司解有年申文(867)

円珍病中言上書(867以降、九世紀)

かなの発生

古今和歌集(905編纂の勅)

(古今和歌集に仮名序を書いた紀貫之(861−946))

小野道風(894−966)

藤原道長(966−1027)

この頃の日本の書は、魅力がある。