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参考(書道独学期間)

from 甲申師走  研賜

 2000〜2002年

行書(悩みは深いが、ここまで)

いろはにほへと(これはこれで楽しい)

楷書(書けず)

漢字の感じ(これはこれで楽しい

 

カナカタと漢字(これもこれで楽しい)

 

 

独学期間

書道に何年も取り組んでいるが、楷書を書けない。そして、書けないことを時代の求めるものの違いと思い込もうとした。

しかし、諦めきれずに、一生涯を通じて、九成宮醴泉銘など古典に近づいていくものと考え、自己流であるが、懸命に臨書に取り組んだ。

ときには、古典は諦めて、書道は芸術である。自分を表現する手段である。好きなように筆を持ち、好きなように、感じるままに、筆を動かすことが個性の発露であると考えた。

3年程前までは、書についてこのように考えて、我流で取り組んでいた。

楽しいが、欧陽詢、顔真卿など古典の楷書は、いつになっても書けないし、書ける気配さえ見せない。一度、書道教室に入ってはみたが、特に筆使いを教えてもらう訳でもなく、手本を見て、書き、それを添削してもらうという感じでやはりピントこない。一回、通って止めてしまった。

行書に関しては、楷書よりは、巧くかけるような気がした。自分の個性にあっているのかもしれないとも考えた。そして、やはり、やるからには、道具から良い物をそろえないといけないと考え、紙、筆、墨といろいろなものを購入しては試して見た。

とにかく、なにか個性の表現できるものはないか、自分しかできない表現方法はないかと、今考えると忙しく書道に取りくんだことを思い出す。

しかもそういった我流の書道は、取り組めば取り組むほと欲求不満が貯まってゆく。楽しいことは楽しいが、なにかが足りない。

それでも、なにかを探して我流の書道に取り組んでいた。

3年程前に、出会いがあり、古典書法の存在を知った。

日本では、書道であるが、中国では書法と言う。

そして、書に関わる法の合理性を知り、書に対する考え方が、がらりと変わった。

そこで、それ以上でもそれ以下でもないところで、書を語るという考えもあり、このホームページに、いくつか臨書例などを掲載している。古典書法に取り組んでからであるが、楷書は3年弱、行書は1年半程度、文人画は半年程度の取り組みで書いている。

3年ほど我流で取りくんでいた時とは、まったく違う形で書に取り組んでいる。自分の力と言うよりは、古典書法のおかげである。もがいた独学の期間が、決して無駄であったとは思わない。しかし、古典書法との出会いがあって始めてその意味を理解できたことになる。

今、日本では、中国の文化を注目してみる人は少数派である。しかし、書法から見ると、たとえようもないほど中国文化は奥深い。

古典として残っている法書、技法、修得の方法論などどれをとっても、漢字に関しては日本の書道は遅れている。

もっとも、古典書法となると、中国そのものでも、今は、その技法を知っている人はほとんどいないと聞いている。明末清初までで進歩が止まったとも見える。

今、京都の地で、古典書法に触れることができることは、この上なく幸運なことであると思う。

古典書法は、なにかを加えてくれる。

(甲申師走記)

追記

書に取り組んで苦しかったことは、文房四宝さらには書画骨董にも目がいくことである。結果としては、自分の好みを知り、かきたい書をおぼろげながらも見つけることができたが、一時、先々のことを考えると無理のあるものの買い方をした。ほとんど綱渡り的なところで、自分の進みたい方向を知ることができた感じである。今は??。 
ここが難しい。みなさんの健闘を祈る。