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小野道風

from 甲申師走  研賜


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甲申黄鐘  研賜臨小野道風智証大師諡号勅書之部分
毛辺紙、小筆大

小野道風智証大師諡号勅書より
 

 

 

   

臨書雑感

縮小して見比べると全体的な雰囲気がよく分かる。臨書の方はやや余白がすくない。

比較的真似をしやすかったので、小野道風も王羲之で行書を手習いしたということはうなずける。

筆の指による回転運動を十分でなく中国の古典的な用筆は、あるようでないと見ていたが、自分で臨書し、下に示すように、拡大して見比べてみて見たりと、改めて良く観察すると、古典用筆としての筆の回転があるような気にもなってきた。

なお、小野道風屏風土代は、十分筆の回転が見て取れるので、基本的には、基礎的な古典用筆は身につけていたと考えたほうが良さそうに思う。

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と書いて、たった今、屏風土台を臨書して見たが、これはほぼ間違いなく古典用筆を感じることができた。

 

屏風土台は、頭あるいは目よりも、指先の運動が勝っているので、書いていて気持ちが発散される。この書あたりに、日本人が真摯に物を学ぶときの感性的な特徴があるのかもしれない。

日本の書道史においては、藤原行成の書をもって和風の書の完成あるいは頂点と評価されることが多い。藤原行成は夢で小野道風に会い、小野道風の書法を授けられたと言われているが、小野道風とは筆使いがかなり異なる。

 

なお、「小野道風は、空海が書いた<朱雀文>、<美福門>の額字を見て、「朱雀門」は「米雀門」に見え、「美福門」の「福」の「田」は大きすぎるといって、空海の書を酷評したため、空海の罰が当たって、書を書くとき、手がふるえたといわれている。」(日本の能書 中教出版)しかし、下の小野道風の書を拡大したものを見る限り、書に震えは現れていない。

(空海関連は用意周到である。ちゃんと小野道風の手がふるえた書も残っている。)

 

藤原行成の夢の件といい空海の罰の話といい、小野道風は、歴史において、相当に意識されてきたことが分かる。

 

 

 

 

         研賜臨                   小野道風書

運筆を読み取っていなかったところがいくつかあることに気がついた。小野道風は、運筆が複雑で正確である。