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隷書(八分)

2007.7 研賜


 

 

 

 

以下、始めの隷書

これは楷書。隷書の無と比較のため掲載。

 

2007.07.23 隷書

洛神賦を書いていたはずであるが、今は、隷書を自分なりに工夫して書き試している。

 

行書並の気遣いで書くことができる筆使いを見つけ出した。楷書程、気を使わずに、より落ち着いた感じに書き上げることができそうだ。波磔を多用するのだが、波磔を線の中に内在させる場合と、明らかに外に表す場合を使いわける。波磔らしく見える波磔は、極力一文字につき一つに抑えて、どんどん書き進むようにしている。

 

実は、洛神賦を書いていると、書きにくい文字がいくつかあるのだが、そういった文字は、今の活字であり、古の楷書と文字の形が違っている。そのため、活字体と楷書の違いを調べていた。

筆使いの自然さを求めていることになるのだが、そうこうしていたところ、右払いや左払いの筆使いの自然さに気がゆき、結果として、気がつくと隷書に近い形で文字を書き始めていた。急ぐ旅ではないということで、洛神賦は一時休むことにして、隷書を調べることにしたという次第である。

隷書を八分と言うのは、言い得て妙である。左払いは王羲之の行書、右払いは、楷書の筆法を使う。そして、横画に右払いの筆法を応用する。縦画以外は、左払いあるいは右払いの筆法を応用できそうだ。

これであれば、気楽に書き進むことができる。書き慣れたら、楷書より早く、しかも長時間集中して書くことができる。意外にも、行書並に実用的な書体である。もちろん筆で書く場合である。

本当は、ここで、書いた隷書を掲載すべきなのだろう。そうしないと反省することができにくいため、だんだんと自信が満々となり、言い表し方が断定調になってくる。思いと実際の違いは、書に端的に表れる。そして、その時に気づくことができなくても、時間が経てば、自ずと見えてくる。しかしながら、赤面ものもあるが、よくがんばっているなと思えることもある。この辺りが、我流の書との違いである。努力というか集中して取り組めば、それに見合う物を返してくれる。

書いた隷書の掲載は、次の日曜日にでも行うことにする。

 

 

 

2007.07.29 絶対善感

先日手に入れた実用的な硯は、朝鮮半島のものと思ったが、どうも、竹をかたどった取っ手を見ていると、中国のもののように思えてきた。文房四宝、つまり書の道具の本質中の本質はやはり中国、やっぱりかという感じである。

 

さて、自運の隷書をいくつか掲載する。裏打ちができていないため、掲載したのは書いた物の一部である。先日予告している。そんなところまで注目し、ご覧になっている方は、おられないとは思うが、約束を守るという感じで取り急ぎ掲載する。

隷書は、気楽に書くことができ、形を取りやすい。自由度が高く、完成された書体であると感じた。ただし、気楽に書くことができるのは、右払いつまり波磔の筆法を横画にも応用して、だいぶと筆使いを簡略化したためもある。自運は、一つ一つの文字の形を、工夫しないといけない。書き慣れるためには、それなりの期間が必要である。

 

古典の隷書としては、 史晨前碑を参考にした。手元の資料を、さっと眺めた範囲では、隷書の「欧陽詢九成宮醴泉銘」という感じがしたので選んだ。

隷書であれば今のところ史晨前碑、楷書であれば九成宮醴泉銘、行書であれば王羲之集字聖教序が、筆者の好みということになる。このあたりであれば、好む人も多いのではないだろうか。

これは朝鮮半島の焼き物にも共通しているのであるが、なんというか、相対的というよりは、絶対的に善いというものがあると感じている。