摂理 |
甲申黄鐘 研賜 |
欧陽詢九成宮醴泉銘 |
H16.11.27臨 H16.11.13臨 | |||
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臨書 H16.11.13及びH16.11.27の九成宮醴泉銘の臨書を示す。 2週間の違いであるが、(1)肘の位置を変えたことにより、縦画を垂直に書き易くなった(2)H16.11.27の臨書で言えば、日、月の一番上の横画の入筆の際の手首の角度を変えたことでやや細めの揺らぎのない線が書き易くなった という2点が、大きく違っている。自分としては、書き易さにかなりの違いを感じていた。こうして、縮小し、並べて見ると、見た目としても改善されていることがわかり、うれしく思う(^o^)。 しかし、今日書くことができたからと言って、明日また書けないことがこれまで多々あった。望む方向には、一歩進んで0.95歩下がるという感じで徐々に近づいている気がする。 なお、右は払いの角度の不揃い、「日、月」の形が似ていないそして1文字の重心のずれが目立って大きいなど多々気になる箇所はある。 細かくみる程気になる箇所が増える。そして自信が・・・。気を取り直し、それ以上でもそれ以下でもないところで・・・。
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行書の方が、楽しく感じるので、分からなかったが、上の臨書した文字を見ると、楷書の用筆の方が、こなれている。楷書歴は3年弱である。古典用筆そしてそれを修得するための方法論の素晴らしさをあらためて感じる。 古典用筆で臨書をする意味は次のように考えている。 摂理(善き動きに内包されている深淵な意味) 強靱な意志は、極限まで生理的欲求を抑え、容易に自分の身を痛めることができる。 逆に薄弱な意志は容易に生理的欲求に従いこれも自分の身を痛める。 いずれも大切な自分を痛める悪い行いである。心と体が調和していない。 善き文化を成立させる動きを修得することはとても重要である。 深遠な文化を創り得た動きの中には、人の英知の真髄が静かに隠れ済む。人ひとりがその一生の中で試行錯誤したのでは決して到達し得ない物が存在する。 その動きを習い、繰り返し繰り返し練習し、微妙で繊細なところまで修得する過程において筋肉に、神経に、脳細胞にその真髄がしみこむ。 歴史の中でその善き物を作り出した人々の、維持継承した人々の、発展させた人々の息遣い、姿勢が、物の考え方が、この身に移る。 歴史が長く多くの人々に影響を与えてきた動きであるほどに、それを駆使できた人は、高い次元で心と体が調和する。 自然は、水が高いところから低いところへ流れるように、宇宙の摂理に従い、存在するもの相互に関連し無理無駄がない。 人の行いも本質は同じである。 自然の摂理が身の動きとして現れるように筋肉に、神経に、脳細胞に覚え込ませる。川を良く知れば、川の流れのように、思い行うことも可能となる。 あとがき 科学技術の発達により便利になった反面、自然の摂理を感じる機会が減っている。 二本足で歩く、指先を使うなど動物から遠く離れる動きをしなくとも不便がない。自分から意図的に動きを求めることが必要である。 |
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