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日々雑感

   研賜

2008.02.17 茶と湯

頭上は、やや高いところで木々に覆われている。向こう岸側の岩と木々を、遮るように、雪のカーテンが、ゆらゆらと揺れながら、、眼下の渓流に向かい落ちてゆく。ゆるゆると、細かな雪が、舞い出した。こんなにゆっくり降りてくるものなのか。これは、舞い降りるだ。粒が大きくなってゆくに従い、スピードが上がる。木々の緑の葉が雪に覆われてゆく。

際限なく、雪のカーテンが、渓流に沿って、降りてゆく。顔に当たる空気は、冷たいながら、なにか、よさしい。渓流を流れる水の暖かさ。そう言えば、生きている木は、発熱しているらしい。渓流の森の温もりの中にあっての雪。心と体が洗われ、具合のよくない気がどこかに消え失せてゆく。

清滝川の、お気に入りの場所で、ちょうどうまい具合に雪が降り出した。ここのところ週に一度は訪れているが、これはこれで格別である。

冬とは言え、緑の葉は多い。ツバキの葉など、つやつやとした緑には、特別な力を感じることができる。例えば、ツバキの葉を抹茶のようにして飲んだら、なにか特別な力が得られるような気がする。森の民が、太古、お茶の葉にたどり着くのは、さほど時間を要しなかったような気がする。

少し前に、自分で点てて飲み始めた抹茶は、今も続いている。グレードとしては、中ほどのものを求めたが、苦みの中で感じる甘みがお気に入りだ。このお茶で、特に気になるところがない。点て方も、色々試している。体調によっても味が変わる。なにはともあれ、おいしいと感じることができるので、これは、続きそうだ。

鉄瓶の薬罐で湯を沸かしているが、電磁調理器を使っている。そうそう、中国のお茶の道具である竹の茶盤は具合がよい。箱型で、蓋がすのこ状になっている。ここにお茶碗を置き、そして、湯を流す。お茶碗にお湯をかけて、埃を洗い流したり、暖めたりする。そう、お湯遊びである。

茶碗、鉄瓶、電磁調理器、茶筅、茶杓、ふきんそして茶盤、これで、手軽に書斎で、抹茶を楽しむことができる。

なにか習わないと、お茶を点てることができないようなイメージでいたが、個人的に楽しむのであれば、なにも、難しいことがない。

茶碗を大事にする心、緑の葉に対する思い入れはある。茶碗を使いたくて、お茶を点てることもある。持ち方も、茶碗とどう触れたいのかで決めた。そして、手の動きに合わせて、呼吸が決まるので、お茶をすするまでの、所作は自ずとそうなる。

薬罐からお湯を注ぐよりも、なにか柄杓ですくった方がよいとおもったため、柄杓を作りかけている。茶杓に作りも試みたが、これは、曲げるところで失敗した。始めに形を作り、火であぶり、曲げようとしたが、これは、×である。

失敗してから調べたところでは、一般的には、、形にするまえに、水につけて、・・・ということであるが、竹を、水につけるところが、生にあわない。どうやら、秘伝の方法を使えば、火を使いながら綺麗に曲げることができるらしいが、知りようがない。

お茶を飲んだ後に、少したつと、どうも、白湯が飲みたくなる。

茶碗は、天目の駒形のお茶碗に落ち着いた。釉薬が厚く。小振りながらずっしりしている。お湯が冷めにくい。油滴であるが、なにか鉄瓶に似た雰囲気で渋い。抹茶の緑が映える。書もそうであるが、肝心なもので、日常使うものはどうも中国の物になってしまう。

白湯は、高麗青磁の茶碗がよい。渓流の水底を眺めながら、白湯を飲んでいる気分になる。

お茶はこんな感じだ。筆者の場合は、茶の湯というよりは、茶と湯である。