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日々雑感 |
研賜 |
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.臨書 2014.01.05 |
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松尾芭蕉 2013.1109 |
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松尾芭蕉を、指先に理解させるために、おくのほそ道を、筆で書いてみている。 松尾芭蕉本人が筆を使って書いたものを写すのも、よいのであろうが、とにかく手元にはない。 こういったことは、本人を理解するための周り道にあらず。続ければ、そのうちに、筆を使って文章を書くと、自然と、似たような文章を書き出すものである。 人の知的活動は、脳でのみ行うのにあらず、脳を含めた全身の神経細胞の活動の結果として、現れるものなり。手指の感覚はことに重要だ。 これ、我が実感なり。
唯、この方法、時間を要する。 さて、 NHKテレビテキスト 2013年10月おくのほそ道 を昨日から読んでいる。 放送としては、済んでしまっているが、日本を代表する最大の詩人である理由を、おくの細道を通して、分かりやすく説いている。なお、 いわにしみ入ることの我が感想はこうだ。
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松尾芭蕉
おくのほそ道 松島より |
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和 2013.0.9.22 |
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王維の竹里館を、漢文の読み下し文で書いてはみたが、原文のままの方が雰囲気がある。 それでは、できるだか少ない文字数でと、意訳を試みた。結果、俳句で落ち着いた。 この漢詩の場合は、この方がイメージが膨らみ具合がよい。 そうそう、今日は、また満月から2日目の月である。 嵐山の川のほとりで、笛を吹いている方を見かけることがある。竹の林も、そこから近い。薄暗い時分に訪れ、能の謡、吉野天人の終わり付近を静かに吟じてなどと、今午前中であるが、考えている。
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王維 2013.0.9.03 |
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夏目漱石の草枕に名があったので、王維を調べてみた。 王維 699ー759年頃。高級官僚にして、詩人、書画、音楽にも通じ る。 自然と、そこでの生活の中にある趣を歌った輞川集で特に有名。 40歳頃に、長安東南に位置する輞川の源流に土地を得、10年 ほどかけて別荘を完成させてゆく。当時の道教と仏教に影響 を受けた別荘としての山間隠棲の地でもある。 ちなみに、篁は広い竹林である。
嵐山の竹林に地続きのところに、丹下左膳こと大河内伝次郎が残した大河内山荘があるが、イメージが重なる。 、
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和 2013.0.9.03 |
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最近は、藤原行成風に書をすることが多い。 快適だ。 思えば、藤原行成の書は、つい最近まで書きずらく、目指す方向が違うと思ってきた。 まあ、これに、古を踏まえた今の時代のひらがなをあわせ、自然な筆使いで書く事ができるように微妙に細部を変化させ、身につければである。
おぼろに霞んで見えるようで見えずにきた目標というのか目的というのか、なんというのか、これがその一つあるいは全部かもしれない。
とにかく、書は続けることは決まっている。そう 楽しみにしている。
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臨書 藤原行成 |
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日本の焼きもの 2013.08.14 |
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日本の焼き物を紹介する。 自然にできているようにたたずむが、韓国の人がつくったものにも通じるものがある。すこしよく見て考えると、、手馴れの他に、よく吟味された素材、技術の高さ、偶然さえも制御しての作為なども感じることができる。 しかし、日本の自然によく調和するし、このもの自体が自然が生み出したもののようにも思える。 なんともはや、日本人は、ここまでいろいろなことものの和をとることができるのである。 自分のことを凝り性と思うが、これを見るとやっと足元という気がしてくる。まだ、大丈夫だ。和である。
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to 常滑壺
赤志野茶埦
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和様化 2013.08.10 |
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猿投の水注から始まり、瀬戸、志野、織部、常滑、渥美の焼き物がだいぶと集まった。韓国の焼きばかりに目がいっていたのがうそのようである。 これらの焼き物は、水が豊富で、自然が豊かな風土でこそ生まれるものと自然に思え、日本のものにしっくりとくるものがいろいろあることがわかり、落ち着くことができそうだ。
文房具も、最近は、硯は猿投の陶硯を使って書をしている。なかなか実用的な硯はないのだが、これは、実用の内に入る。雰囲気が気にいっている。灰釉の焼き物で、平安時代の頃のものだ。当時、釉薬を使った焼き物は日本ではこの地方でしか焼かれていない。政治を司る人たちなど限られた人のみが使用していた言われている。藤原行成、小野道風、空海なども使用していたと思うと、縁に感謝。 さて、今日から夏期休暇である。朝から、趙孟頫(1254-1322)の洛神賦を参考にして、行書に取り組んだ。陶磁器の好みが日本のものに移るのに同期して、書もそのように変化しつつある。
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茶ゴールデンウィーク中の書 2013.0525 |
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今回のゴールデンウィーク中は、寒山詩をと考えていたが、刻された文字を書くとそれに影響をうけるため、変更し、 趙孟頫(1254-1322)の洛神賦を参考にして、小楷書で書を行ってみた。洛神賦は約千字、一日1回は一通り書いてみた。右は8回目のもの。 この書の筆使いは、り先生の王羲之の臨書を参考にして、、行書の筆使いで書いているので、早書きできる。手紙などを書くのに適している。
目測で、同じ墨の調子を保って、書ききることに苦労したが、結局、最後どのようにして、墨の調子を保ったのか、今もうすでに良く覚えていない。
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いまだ 2013.04.4 |
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猿投に瀬戸それに美濃の焼き物。ひと月ほど経つが、いまだ、感心が続いている。なにかと気もそぞろだ。 その場では勘のみで理解できるものが、あるとき集団でやってくる。前回は、朝鮮半島のもので4年前頃だった。 この道のことである。この関係、急遽、本で勉強をしては見たが、物に接して、勘をたよりに受け入れることにする。まあ、もうあまり無理はしないはずである。自分のことであるが、なるべく書に必要なものに焦点を絞ってくれることを祈るばかりである。
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日本の焼き物 2013.03.16 |
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最近、びっくりすることが多い。 古典書法にとりくむのと同期するように、陶磁器を中心として骨董品も好きで続けてきた。はじめに中国のもの、すぐに朝鮮半島のものを中心として求めてきた。ここしばらくは、祭器と、感じをうけるものに関わってきた。例えば、渋い青磁、井戸茶碗などがそうだ。 熟練した手業として、作為が見えずにそのようになっているものに魅力を感じてきた。そういったところが、日本のものにはないと思い込み近づくこともしなかった。
しかし、青磁は猿投・瀬戸などの古いものに、より深くしっくりくるものがあることがわかった。 そして、志野焼きである。 土、釉薬など素材、火、偶然も必然とするほどの高い技術、絵柄、形に込められた意図、飲みやすさ、詩的な情緒など、互いが互いを引き立てるようにして融合している。 空間に、他のものによく和す。技法は朝鮮半島で発達した技法を利用しているとも思えるのだが、柔らかく使いことなしているので自前で技法を発達させてきたとも思える。和の物としか言い様がない。 さまざまな角度から、一幅の絵を眺めるように見ることができ気が和む。 ちょっと画像が重くなるが、よく見えるように大きな写真で掲載する。 志野焼きは、時代を言えば、1500年の半ばから、ごく短い期間作られたもの。朝鮮半島では、祭器が、青磁から、井戸、粉引きなど中間的なものを得て、白磁に完全に切り替わった頃に、日本では志野焼きが始まっている。 それから、小さな楷書であるが、書を掲載する。自然と遊ぶと良くこうなるのだが、しかしてこれは茶碗。自然=茶碗と感じていることになる。 韓国の祭器として作られたと思われる茶碗を使うと鼓舞され修行に励むことになるが、この場合は安らぐ。
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茶碗 2013.03.22 |
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茶碗のページに、日本の灰釉茶椀を追加。 その昔、安土桃山時代あたりまでであるが、日本の焼き物も、朝鮮半島の焼き物に似て、作為を感じさせないものがあると、最近わかった。特に善い点は、用途と使い勝手を考えぬきそのように作っているところだ。 ある種の焼き物は文化あるいは文明を凝縮したものと実感として思えてきた。特に、水注、茶埦でそれを感じる。
文房具であれば、水滴とそれに水を注ぐ水注は、日本のもので善いものを手元におくことができている。硯が手に入ればよいのだが。こういったものは縁なので、そうほぼ縁である。 楷書の極まった時代あたり、シンプルで実用的、傷一つなく、新品に見えるほど綺麗な状態のものでかつ日本で作られたものであれば最高だ。 書に励んでいればやって来てくれると思いこんでいる。
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さて、目標。 H25.02.02 |
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さて、2月2日から、古典書法12年目に入った。 今年は、唐詩を書き、中国語で読むことができるようにするなど面白そうだ。 それから、宋刻本寒山詩集を書き写して見たいと考えている。刻と書いてあるとおりで、書体は肉筆風であるが印刷物だ。これを筆で書き写してみたい。 寒山詩集の文字数は、2万字程度である。この正月に、半紙6文字の楷書で、10時間ほどで600文字書くことができた。墨をすっている時間を除くと、約6時間で600文字。このあたりが最高速度だ。 これを半紙200文字程度の大きさとした場合、どうであろう、30分間で書かないといけないだろう。1時間で約400文字。2万文字であれば、50時間。9日間の休みとした場合、文字を書いている時間で、1日約6時間となる。 1時間に楷書で400文字か・・・。罫線を引けばもしかしたら、書く事ができるかもしれないが・・・目測ですらすらと書き進みたい。 休暇時の課題としては難しい気がする。まあ、挑戦してみよう。 しかし、これはなんのために、ということになるのであろうが、とにかく、書は継続、ん! 目的が継続、となり、変は変であるが、とにかく進むことにする。 顔真卿東方朔画贊の臨書の意味を11年目に実感したように、書を継続したことの意味を実感できる日がくるかもしれないではないか。 |