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日々雑感

研賜

 

  

  2016.01.17 文房四宝

 

続きであるが、文房四宝を決めたのは良いが、使用した墨が現在作られているものではないので少し調べてみた。

 

この墨は、雲墨という墨で、乾隆年製とある彩色が施されていない大きな油煙墨だ。

 

墨色が単純に黒いこと、彩色が施されていないこと及び擦ったときの香りから、日本の墨しかも膠がさらりとしているので、鈴鹿で作られたもので中国の墨の倣古物という印象までは持っていた。

 

今日調べたところでは、同じ形状で松煙墨があるではないか。30〜40年前に、日本で作られていたことがあるとのことだ。

 

ここまでは良いが、何でも、木材を燃やして作った煤ではなくて、石油系のものから作られたカーボンを使用したものもあるとのことだ。

 

購入したとしても、擦ってみるまで油煙か松煙か分からないとなると選択肢の内とするのが難しい。しかも、カーボンとなると、選択の範囲からは外さざるを得ない。

 

使用したものがカーボンかどうか調べてみる。人工的なものは、多くの場合、使う内に飽きてしまう。最初から避けられるのなら避けた方がよい。

 

墨のおりがよく、さらりとした状態でにじみにくく、いままで使ったものの中では一番使いやすかったので喜んでいたのだが・・・・。まあ、調べてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2016.01.17 文房四宝

 

更新が2ヶ月ほどあいたが、書をしていなかったわけではない。

これまで以上に、紙、筆、墨、硯を、好む方向で追求していた。右は、昨日、選択した文房四宝を使い、間隔2cm程度で、東方朔画賛を書いものだ。

 

文房四宝それぞれに、選択の幅が広い。例えば、紙を楮紙と決めたとしても、にじむもの、にじみにくいものなどいろいりだ。作ったところ、人、そのとき収穫した材料あるいは厚みが違えば、求める方向とずれてくる。

 

筆は、書くことができる線質、書き心地、濃く書くことがきるかなど、考慮すべき点が多々ある。

 

墨も難しい。これは事前に試すことができないのが難点だ。

ただ、使いこなしでどうにかなる部分もある。さらりと濃くといように、さらりの部分にこだわったため、選択に時間を要した。

 

硯も、しかりだ。ただし、墨と硯の相性については、濃墨で書くという観点で言えば、それほど気にする必要はない。適度な濃さになるまで擦れば良い話だ。相性の問題は、適度な濃さになるまでの時間の長短と考えればよい。もちろん、擦り心地は、墨と硯の相性で異なってくる。

 

文房具そのものの特性はあるにしても、使いこなし方も重要だ。ときには、書きたい書に合わせて、見つけ出してゆく必要がある。

 

以前から感じていたことであるが、墨を擦って、濃墨で小さな文字を書くという文化がなくなりつつある。一般的な本に有益な情報が少ない。墨汁を使っているような文房具で、手ほどきをしている本も見かける。

 

まあ、こだわりがある中で、日常使用できる文房四宝を決めることができたことは幸運なことと思う。

 

ただし、努力98%で運2%という感じか?努力していなければ、近くにあっても気づくことができない。発見とか発明と同じレベルのような気がしないでもない。しかし、何故、このようなことになっているのだろうと考えると、書の世界にお家流があったが、書は相伝してゆく類いのものなのかもしれない。少なくとも、道具選びで脱落することは防げる。

 

ただし、文房具選びは楽しみという面もある。書をしているのか文房具を探しているのか分からない感じで楽しんできたので、決まってしまうと物足りなくなるかもしれないが、腕前を上げる方に専念すべきなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.11.07 文房四宝 筆

 

 

安永三年(1774年)発行の俳句集が手元にある。小さな本で印刷ものだ。草書と変体仮名、カタカナ交じりで書かれているが、洒脱というか俳句を書くのに良く似合っている。ゆえに変体仮名、草書を学ぶ良い手本となる。

 

もちろん、変体かな、草書は読み慣れている、書き慣れているとはいえない。

 

昔の本で勉強するのはここが難点だが、ただ、芭蕉の句であれば、調べることができる句もある。

 

昭和の初期頃のペン字の本を見ると、変体仮名と草書を普通に使用している。江戸時代もそうであるが、子供のころから草書、変体がなになじんでいるのだろう。

今の出版物であるが、手元にある芭蕉の俳句の本をみると、変体かなをひらがなに変えている。

そうなると、

これを調和体で、草書を交えて筆で書くと雰囲気が和歌のようになってしまう。また、楷書で書くと、これはこれでなにかしっくりこない。

 

漢字があるものは漢字を使えば句の意味をとりやすくなるなどを考慮することにして、俳句は下のような感じで書くとシックリくる。

 

 

 

 

安永三年発行の俳句集。題名はすり切れていて読み取れず。印刷本であるが、変体かなを多用しているがこれはこれで俳句にお似合いだ。

本の縦寸法15cm。

 

 

 

 

 

 

小筆の具合がよい。つい試したくなる。

芭蕉の俳句。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.10.19 文房四宝 筆

 

手指にまかせて書くと書いたものを楽しめる。

以前、購入した細微光鋒の小筆を引っ張り出してきた。

今は、これで、楷行書も書ける。が、この筆は、粘りというのか 書き味が独特で楽しめる。手指を遊ばせてみた。

 

 

 

 

 

細微光鋒の小筆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.10.12 文房四宝 筆

 

日常、使用する小筆を探して、最近求めたものを、取っ替え引っ替えして書き味を試していた。最近、見つけた店の筆は、どれも墨含みがよい。そして、墨降りの具合もよい。大げさに言えば、ゆる目に墨を擦り、無造作に墨を含ませて、多少、含ませ過ぎた部分は吸い取れば、あとは、万年筆のインクよろしく適度に墨が紙へと降りてくるので墨がきれるまで書くだけという感じだ。墨継ぎなしで結構な文字数を書くことができる。写経筆であればそれこそ相当な文字数を書くことができる。

書くことに専念できるというのは楽しい。気が途切れないというのはこういうものかという感じだ。

さて、紙であるが、その辺にしばらく貼り付けて眺めるために書く時の紙としては、無骨というかなんとなく男が使うものという感じがするので楮紙を好んでいる。右は楮紙でも肌理が細かく、厚みが薄い。なんでも少し前の世代の方が漉いたとのことで今はこのようにできる人がいなくなっているそうだ。たしかに具合がよい。この紙に対してであるが、今回、求めた筆の中では羊毛の小筆がよさそうだ。しばらく使ってみる。愛用品の一つになってくれると良いのだが。

 

 

 

 

羊毛の小筆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.10.12 散策へ

 

 

しばらく、更新せずにいた。特に書をすることを休んでいたわけではない。書の勉強については、この間、筆に柔らかくふれ、指先が作る空間の中で動くにまかせるようにして書く技法については一つ区切りをつけることができた。

 

続いてしまっていた陶磁器の方は、美濃の焼物と縁を積み重ねていた。ここにいたる始まりは、書に使用する水を祭る陶磁器を探したことから始まる。

高麗陶器の青い梅瓶、

それとペアになる高麗陶器の青い茶碗

井戸茶碗

高麗粉引茶碗

美濃の鼠志野茶碗

美濃のさまざまな茶陶及び特注高麗茶碗

という感じで進んでいる。

そして、美濃の焼き物は、陰陽五行に関連した器であると気づいた。

そう、なにも難しい話ではなく、四季折々、自然やご先祖様に感謝を捧げ、自然とご先祖様からの恵みをいだだくのに使用する器たちだ。

少し前にまとめたものであるが、

リンク:茶碗

に掲載。実際、まだ2週間も立っていないが、いろいろと新たに気づくところがある。

どうも、利休さんもであるが、美濃の焼き物が陰陽五行に関連する器であることを知らなかったというのが、今の結論である。やはり当時は、立場立場、身分身分で知り得なかったことがあったのだろう。

一例を挙げれば、黄瀬戸茶碗といって黄色い茶碗があるが、利休さんによれば向付けを見立てたものとなっている。

しかし、黄色は、中国では黄色い衣服は皇帝専用というように、特別な色でもある。陰陽五行でいう、土、季節季節の変わり目の18日間でもある。・・・・・

黄瀬戸茶碗は、威風堂々としている。亀甲文とも思える黄瀬戸の六角形のお猪口を従えると、猿投の祭器と思しき焼き物と雰囲気が一致してくる。これを向付けと見なす感性は井戸茶碗を雑器と見てしまう感性と同じものを感じる。おそらく、口縁が六角形のお猪口も、お猪口と言われているが、祭器の一つなのだろう。

 

古典書法も、陰陽を含んでいるので、陰陽五行には親近感がある。実際に、書においては、柔らかな指使いと、堅い指使いの使い分けに工夫を積み重ねている。

話は変わるが、イメージ通りに書くことができる筆を、ずっと探している。が、最近知ったお店の筆が良さそうだ。しばらく試してみることにする。

特に、楷書を書くのに具合がよさそうなので楽しみだ。

 

 

 

竹は五行の火に属す。金色は土に、金属であることは秋。夏の火によってとかされて、金色の冬の水すなわち墨液となる。春の木々のように、書いたものが現れる・・・はず。

古典書法を知る前に作ったものである。昔から陰陽五行の周りで回っている。

 

 

最近手に入った筆であるが、なんとなく良さそうだ。・・

 

 

 

  

  2015.07.11 文房四宝 紙

 

以前購入していた筆を眺めていたところ、今日は面相筆に目がとまった。たしか画材屋さんで購入したと思う。

3本ほどであるが、今日は朝から試していた。そのうちの一本が、弾力と粘りと墨の含み離れのバランスがよく、筆先を鼠のように動かして書くことができる。これであれば平安時代あたりのさらさらと書くひらがなに向く。雁皮紙にただ筆を走らせてみたが具合がよい。

このような筆をつかって、雁皮紙に歌でも書いて贈っていただいたとしたらどんなにかうれしいだろうと思う。

こちらはと言えば、なにも考えずただ今気に入っているからという理由で、楮紙に孤独を楽しむような詩を書いて返信し、おそらく嫌われるのだろう。

 

 

 

 

 

雁皮紙に面相筆

楮紙に紙巻筆

 

 

面相筆で行書を書いてみた。具合がよい。あの店と思うので、これから行ってみる。手持ちは一番細い筆。太さを違えて試したい。

 

 

 

  

  2015.07.04 織田信長そして本能寺ハ変

 

二条城は謎めいている。信長、秀吉あたりは、城があったのかどうかも曖昧だ。天皇をお守りするのはそのとき政権をもった武家の義務とおもうのだが。

現在の二条城に近く、堀川高校のところに、徳川秀忠の頃に、二条城の留守居らしい藤堂高虎の屋敷跡を示す石柱がある。藤堂高虎の前は、古田織部の屋敷があったとされている。すぐ傍が、旧本能寺跡だ。本能寺の変が起こったとされている寺である。

 

古田織部の長男は、徳川秀忠将軍時には山城守だ。本能寺の変のとき、これに相当するのは明智光秀で近畿地方の将軍だ。

古田織部の断家譜から、すっぽりと抜け落ちているのは、家康と信長だ。

また、家康の子である家光の光は明智光秀の光をとったものと考えるのは自然なことだろう。

本能寺という名で二条城が隠れ、利休という名で古田織部が下がり、織部の父が隠れる。秀吉の名で家康と信長が隠れる。そう、断家譜では、古田織部と織部の父は秀吉に仕えたことになっている。

写実的な絵を描くと時に、輪郭を見るのではなく、その物が作る空間を見てそれを描くと、いつしかその物が写実的に現れてくるのと同じように、隠そうとしてその周辺を時には話を作りながら埋めていたら、隠したものが浮かびあがってくるのと同じような感じがする。

やはり、秀吉のみに仕えていて、その息子が、徳川家二代目将軍秀忠の時代に山城守となることは無理がある。

また、現在の京都御所、二条城跡、本能寺そして旧本能寺跡などを書いてみると容易にわかるが、本能寺を信長が宿泊所にするのは無理がある。そして、それとリンクするように、その時代あたりに、京都にあるべき城があったのか、あればどこにあったのかが曖昧とされている。本能寺の変は変であると思うのだが、今現在公知の事実として流布されているのは本能寺の変である。残されたものから考えると、・・の変は変だ。クドイので、「本能寺ハ変」とする。

 

これから良く調べてゆくつもりであるが、志野織部の焼き物は秀吉がなくなった後から家康が亡くなるまでにすばらしいものが焼かれたらしい。

家康自分が、自分の存在を消すのは良いが、織部の焼き物の良さまで消すのはどうかと思う。織部と称される茶碗もまた、日本が文化として到達することができた一つの高みと考える。

中国、書で言えば、王羲之、顔真卿などは神格化されて来ていると思えるようなところもある。これは、残そうとした書にすばらしい文化的な高みが伴っているのでとても良いことであると思う。

だが、しかし、利休という名で残そうとしているものと織部の焼き物を比べると、わびさび的な感がある。ヘウゲ・・やクツ・・というオカシナ評価の垂れ流しで損なわれるものもある。なんとかならないものだろうか。少なくともこれはせずに神格化を進めてほしい。

 

簡素に考えると、

信長は、二条城の変で、明智光秀の謀反に倒れる。古田家と家康はこのことでは協同。秀吉の関与は不明。

古田家は、二条城の変に関わっている。徳川家の今後のことに思いをはせると、天命が尽きている。

二条城の変はあまりに体裁が悪い。信長公記を作り、信長の亡くなり方はこうだよと流布。二条城は曖昧とし、本能寺を前面に立てる。また、古田家のことは、利休という名で落とす。

となる。こうであったとしても、歴史の流れ、戦国の世、お家の存続などを考えると、どちらが善いの悪いのではない。そういったことも含めて今現在があることに感謝。が、未来を思うなり。

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中に知られている信長の肖像画は狩野永徳の弟が書いたものと言われている。しかし、自分のこととして考えると、このような画を描かれたとしたら馬鹿にされたような気分になる。漫画的で弱弱しい。即興であるが、本能寺が所持している織田信長公肖像画の方を写してみた。これであればなにもいうことはない。

 

 

現、二条城跡は、目測、京都御苑の3分の一程度の広さだ。今の本能時の敷地面積は、その二条城跡の、数十分の1だ。現堀川高校と同程度か。現堀川高校のところには藤堂高虎の屋敷跡があったとされている。その前は古田織部の屋敷であったと言われている。(本当かどうか確からしさなど調べていないのであくまで噂話として記載)。また、その東側には、本能寺の変時の本能寺があったところ。うーんと唸る。現本能寺の敷地面積から言えば本能寺は小さすぎる。やはり信長が宿泊するのは城でなければ。

 

瀬戸黒。織部焼と同時代頃。同じ窯あるいは近くの窯で焼かれていた。

 

 

  

  2015.06.20 古田織部

 

 

 

 

 

古田織部家家譜 断家譜から

 

オンコチシン 行書

 

オンコチシンニ 隷書

 

オノコノチシン二 楷書

温故知新の焼き物 織部焼

まずは家系図から

古田織部の父、息子について家譜を掲載する。内容は断家譜によった。断家譜は、江戸時代1809年ころにまとめられたものもので、内閣文庫が所蔵。上はその活字本である続群書類従刊行本を図書館で借り調べた。参考までに利用した図書館は、京都市中京中央図書館。はじめてここを利用した。2、3年前かにできた建物の中にある。よい感じだ。

さて、以下、断家譜から読み取れること。

断家譜の目次のページの不の部に、一万石 古田織部正という記載がある。一万石は、領土城持ち大名。 

藤原家の流れ。本国は美濃、家紋は丸の中に三。

そして織部の父

重定:

民部某(今で言うと事務方か)男

秀吉公に仕えた。同朋(衆)、その時の名は古田勘阿弥、後に還俗して主膳正として三千石を賜る。慶長三年(1958年)8月19日没。

 

重然:

 秀吉に仕えた。官職名:織部正 茶を嗜み古器を賞玩する。元和元年(1615年)乙卯6月11日木幡において生害(自害おそらく切腹)京都の紫野大徳寺玉林庵に葬られる。

 

織部の長男

重広:

台徳院様(徳川秀忠)にご奉公つまり城・領土を持たず江戸で勤務。官職名は山城守。元和元年(1615年)12月27日江戸本誓寺において伏誅(文字どおりであれば地に伏せた状態で罪をとがめ殺す)。ここでお家は断絶。

織部の次男

某(つまり、なにがしとされ名前の記載なし):

台徳院様(徳川秀忠)にご奉公。官職名は左近。御書院番つまり将軍秀忠の親衛隊である青山□伯守の組に所属。 慶長二十年(1615年)乙卯5月7日大阪夏の陣で討死。子供なし。

 

織部の長女:

浪人 鈴木左馬助の妻

 

家系図の補足など

官職から官位を調べて記入すると、

父:主膳正  従六位上

織部:織部正 正六位下 1万石

長男:山城守 従五位下 

次男:左近  正六位上 (長男よりは下位の左近将監と考えた)

となる。

長男は織部より官位で言えば2段階上、次男で1段階上となる。位階はあがっているので、お家としては繁栄していたと見える。

父重定は1598年の8月19日に没。秀吉は1598年9月18日没であり、秀吉の死に殉じたものではない。

 

織部は、息子が2代目将軍秀忠にご奉公とあることから考えると、徳川家康にも仕えたと思えるが記載なし。また、次男は、名前を某(なにがし)とされ、大阪夏の陣で徳川側にあって討死にしたにも関わらず、名の記載がない。長男は自害を許されず。これらのことから考えると、お家取り潰しとなった原因は、徳川家の家臣にあって、豊臣方に通じていたとされた模様。

 

自分なりに考えてみると

この家系図は、歴史認識に対してとても想像力を刺激する。今の世は徳川幕府の続きのようなところもあり。忠臣蔵のようにマスコミを使っての宣伝と類似のことが、古田織部に関わるところで行われているような気がする。

ちょうど良いタイミングで、良い雑誌が売っているのを見かけた。

「歴史人 2015年6月号 No.57 総力特集 本能寺の変 KKベストセラーズ」

この本のp64に、歴史研究の資料は、原則として一次資料(同時代に発給された古文書、日記、金石文)を用いる。二次資料((系図、家譜、軍記物語など)は、後世に編集されているので、用いる場合は徹底した資料批判が必要であり、参考的なもので、普通は学術論文などで積極的に使用しないことや、本能寺の変に関連する資料について、一次資料はこれで、二次資料はこれというような具体的な例を上げている。具体例はとても参考になるし、考え方としても賛成だ。この部分の記事は渡邊大門氏。

古田織部の場合は、ほとんどが二次資料にあたるもので人物像が造られていることを理解。しかも、作られた人物像を定着させる作業が、今現在、進行中である。これはなぜだろう。

書をしている限り、臨書で写すと歴史=今となる。陶磁器も数百年ではほとんど変化することがない。手元にあれば歴史=今。小説を読むよりもずっと想像力が刺激される。しかも、小説あるいは古田織部の件のような一見学説もその意図が透けて見えてくる。

 

これも長くなりそうだ。いったんきり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

断家譜:断家譜については、次をご参照。

https://kotobank.jp/word/%E6%96%AD%E5%AE%B6%E8%AD%9C-1184083 断家譜について

江戸時代、1800年頃までに、お家が絶えたその系譜をまとめた本。古田織部は、断家譜記載の 家の内のひとつであり、お家を江戸幕府によってつぶされたことから、幕府の都合に会わない部分は省略されているような印象を受けるものの、まずは、一番信頼できるものに思える。

現在、一般に、流布している織部像は、「桑田忠親氏の古田織部の茶道」という本に記載されているところによる。桑田氏は1902−1987年の人。この本に関しては、織部が利休の弟子であることを公理のようにして論を積み上げていることと、その流れの中で氏が生存中に発見した古田家家系図も利用しているところが気になる。

断家譜も、比較的近年発見された古田家家系図も同じく家系図とはいうものの、断家譜は200年程までに発行、氏は数十年前に発見、断家譜には家が記載され古田織部はそのひとつ、氏の発見したものは古田家特定のものだ。古田織部はお家を江戸幕府によってつぶされているので、幕府の都合に会わない部分は省略させているような印象を受けるものの、まずは古田織部家についてはこの資料からはじめるのが妥当と思える。

 

オノコノチシン二 

織部掬い手深形茶碗。窓絵下地唐津釉

 

この茶碗、絵柄が永遠に現代的であるが、畳みつけ側を見ると雄大で本物然としている。掬い手深形したがって親指がかり、飲み口の端反り・端内削り、軽く山路、外轆轤目内なめし、畳みつけ内側釘彫りこれはめずらしい、茶溜りありと桃山の茶碗特有の決まり事を数多くもつ。茶色い土に織部釉薬なので深緑で渋さあり。掬い手は、両手で水を掬って飲むような感じでお茶を飲むことができる茶碗のこと。お茶を、自然の恵みを押し頂く気持ちになる。飲み口の端反り・端内削りはこれがあると大変飲みやすい。自然な感じでお茶をいただくことができる。畳つけ部分の土やわらかく感触が良い。深形なのでお茶も立てやすい。自然な感じで作られていることに歴史と熟練に裏付けられた手業を感じることができる。手業としては感性と感覚を瞬間的連続的に制御している感じ。書に通ずるところあり。これを真似するのはさぞかし大変なことのように思える。今の世ではできないかもしれない。しかし、これは過去にできていたことだ。何事であっても、こういったところを出発点とすべきだ。

これが、今日では、ク・形とかヘウ・・ものとか言われている。ここが見る限りは、そのようなものではなく、掬い手は平安時代の猿投茶碗ですでに現れる形だ。深形は新しい試みで、目にするのはこの桃山?安土?頃からのこのような茶碗からだ。温故知新の焼物。

この茶碗であれば、武人が人前で使用すると様になるような気がする。伊達ものという感じ。

 

古田織部に関しては、

1)織部焼と呼ばれている焼き物を含めた安土桃山期の美濃の焼き物を使用するところから感じるところを第一優先とする。(茶碗を引き合いに出して織部を語るという資料が多いのでここもそのようにしてみる)

2)古田織部の記録に関しては断家譜に書かれている内容を最優先する。

3)その他の記録は出典とその信憑性について納得できた場合に採用する。

という方針で雑感を書いてみたい。

 

出典:

武家官位については、ウィキペディアをご参照。

位階については、http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse010.html をご参照。

山城国については、ウィキペディアをご参照。これによれば、推定として、京都市、長岡市などを含む地域。

石高は、http://ja.wikipedia.org/wiki/ 旧国郡別石高の変遷

山城国は約21.6万石。古田織部は京都市中京区東堀川通錦小路上る四坊堀川町当たりに屋敷を持ち、長男の官職名が山城守。

このことから、京都市内に、領土と城を持っていたと思えた。そうであれば二条城かそれに相当するところと考え、まずは二条城 城主をキーワードに検索するが、二条城の城主はもうひとつ分かりにくい。例えば、家康、秀忠、家光など徳川家が城主などの紹介もあるが江戸城の城主を兼ねていたのかなどなにか全般的にもやまやとしている。城主が徳川家であっても通常はだれか相当の人が居住していたはずだ。・・

本能寺の変あたりから1615年あたりにかけて事実を分かりにくくしているような流れがあるような気がする。

美濃の陶磁器から思いもよらない方向へ進んだ。自分なりに、信長、秀吉、家康あたりの歴史について、イメージが涌いてくる。

信長、本能寺の変、茶坊主、古田織部家の発展と断絶、明智光秀、二条城の歴史分かりにくい、焼討ちされた本能寺は、現在で言えば堀川高校の東側だ。

出典不明で確認する必要があるが、西隣には慶長頃から古田織部の屋敷があったといわれている。

家康の子供の名前。利休という名で古田織部の父が隠れる。そして、猿投、瀬戸そして美濃焼き物も。外国の関与。徳川の世もまた唯今進行中。

 

織部志野?志野織部?の茶入

 

 

 

  

  2015.06.14 美濃焼き物

 

さて、今日のこと。

土岐駅で降り、美濃陶磁歴史館そして織部の里公園にある元屋敷登窯跡を見学、展示してあった陶磁器のうち、ここが掬い手の茶碗に注目していたが、飲み口に飲みやすくするための配慮がなく、世間一般に言われているようなひずんだ茶碗と見えた。

おそらく大名、寺社向けに高級なものも焼いていたのであろうが、そういったものは展示されていなかった。

そのまま、北西に歩いて、荒川豊蔵資料館へ向かう、途中にある現在の作家の陶磁器が展示されているところへ寄る。ちらりと見る程度、ここにはない。

 

そして荒川豊蔵資料館へ、すくい手、端反り、端内削りなど注目しているところの作りこみは残念ながらなかった。ただ、氏が 所有していた桃山の志野の陶片は大変興味深い。山茶碗のような黄みのない白い土、明るい赤みの発色。赤みの少ないと陶片をみて驚いた。これは井戸茶碗の釉 薬をまねようとしたもの。そういうことかと納得。陶片であるが、実に堂々としている。荒川豊蔵記念館がある近くに、牟田洞そして大萱窯下窯跡がある。ここ では大名、僧侶、豪商など用の高級品のみ焼かれていたという説明に、概ね納得した。ただし、陶片であり、茶碗であっても一部分のものなのですくい手、端反 りそして端内削りは確認できず。

江戸時代であれば、いわゆる武家、それも将軍家、諸大名あたりが使用するものを焼いた焼き物、鍋島藩直営の鍋島焼がある。中国であれば官用にあたる。

http://blogs.yahoo.co.jp/fukuendoblog/4755961.html

中国の官用磁器について

ここから考えると、日本においても中国の制度をならった平安時代より官用があるはずだ。

・・・

長くなりそうだ。ここでいったんきり。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.06.12 出所

 

硯、紙、筆そして墨が変わると、それに応じて現れる書の印象が変化する。本質は同じであるのだが、おもしろいものだ。

今回の場合は、その辺において、なにげなく眺めていると、墨の調子の変化が面白い。文字を読むのがつらくなる程度離れてみていただけると良いと思う。

現れると他人事のようだが、文房具と手が協力し合って、意識が関与せずに書いたような気がするので、自然とそのような表現になる。

ところで、右の書の内容は、徳川家康の遺訓といわれているものだ。「思」は漢字であったりひらがなであったり変化する。インターネットで検索したところでは文章が微妙に違った遺訓がでてくる。

そうこうすると、この文章の出典が気になる。さらに、徳川家康が遺訓として残すとしたら漢文にしないのだろうかなど疑問が涌いてくる。結局、疑問があるかぎり、自分なりに出典を調べ確たる自信がもてない限り、徳川家康の遺訓と「いわれている」というような表現を使う。

 

ところで、古田織部であるが、「桑田忠親著 古田織部の茶道」が届いたので、今読んでいる。

断家譜は、この本でも紹介されている。いろいろな論の根拠とした出典はその名前だけ記載しているため、この本をもって根拠とした資料をしらべるのはつらいものがある。

また、古田織部が、千利休の高弟ということは数学で言えば公理のように取り扱っていることが気になる。

古田織部が関与していると考えられる焼き物と千利休が関与した焼き物とを比較して沸いてくる感情を優先して考えるとこれはありえない話である。

 

もう今日であるが、可児市と土岐市にある美濃陶磁器の資料館・美術館にいってくる。美濃の陶磁器について掘り下げてみる。

 

 

 

 

 

 

徳川家康の遺訓といわれている文書を書いてみた。(なお、濁点の場所を、2箇所ほど間違えた。しかし、そのまま掲載。文稿的な流れで書く場合は、濁点は流れが断ち切れる。少し書き進んでからこのあたりという感じですばやく濁点を書き入れた。)

 

 

 

  

  2015.06.06 織部の実父

 

 

この頃の陶磁器、それも茶碗を手にすることが多い。熟練の技を感じることができる。茶碗としてどうあるべきか考えぬかれている。自然も写している。ある意味、書の目指すべき方向と一致している。

そんなこともあり、今まであまり気にとめることがなかった、この茶碗が作られたころ、信長、秀吉などの書状を見ている。中国の楷書、行書の書法を基本とし、使いこなし、形にあまりとらわれることなく、自然に書かれたものに思えてきた。

中国で言えば、

顔真卿の祭姪文稿がそれにあたる。

 

書状あるいは文を考えるときのメモであれば、筆のいろいろな面を能動的に自然に使う書法によればこの書のようになることは理解できる。ただしこの類の書は、手の感覚を澄ませ、紙から返る力を感じながら走るように書くので、情緒というのか、感情を交えて書くのにはあまり適さない。

 

次、日本の信長、古田織部そして利休の書である。見ると、どれも、ここで紹介している書法を心得ている感がある。

 

信長 書状

 

古田織部 書状

 

千利休 書状

 

筆の使い方に共通点がある。古田織部と千利休の書は雰囲気まで似ている。

 

この時代、信長であれば、右筆という、代書をする係りの人を複数人抱えていた。ただし、掲載されていた本の中では自筆として紹介されていた。

しかし、千利休は商人であるが、筆の使い方が、信長あるいはその右筆と同じというのは奇異に感じる。

また、利休の楽焼であるが、美濃の焼き物であれば、瀬戸黒あたりと比較されると、一楽二・・などと言って、無条件で茶碗の一とされるようなことにはならないように思うのだが

千利休に関しては疑問ばかりが涌いてくる。少し気にかけてはいるが、今、流布している人物像は織部亡き後の記録に頼っているようだ。本当にそうであれば詳しく調べてゆくと、実体が見えなくなりかねない。それにしても、今、流布されている千利休像は、織部の実父のイメージとダブル。

織部は、美濃の人。信長、秀吉、家康に仕えた武将にして、切腹時は、徳川家2代目秀忠の茶道指南役といわれている。織部の名前がつけられた安土桃山時代の美濃の焼物の指導者として有名である。父、重定は、信長そして秀吉の同朋衆で茶道に関係していたと言われている。

徳川時代に作成された断家譜では、

重定(織部の実父のこと):  秀吉の同朋衆、後還俗、三千石を賜る。慶長3年 戊戌八月19日没。

重然(織部のこと):秀吉に仕え、茶を嗜み、古器を賞玩する。元和元年乙卯6月11日、木幡において自害、葬紫野大徳寺玉林庵。山城守。

重広(織部の長男):秀忠 台徳院様に御奉公、元和元年乙卯12月27日、江戸本願寺において伏誅。

左近(重広から線が引かれているので重広の子供となると思うが、慶長20年に討死とあるので、織部の息子のはず・・。このあたりが調べる限界)

とある。

なお、断家譜は、直接これにあたったのではなく、「古田織部の世界 久野 治著」に記載されていたものによった。

重家は、武将の家柄であるが、還俗とあるので、豊臣家にあって役割として坊主ということになる。茶道に関連した坊主であるので、茶坊主だ。

茶坊主に関しては、ウィキペディアの茶坊主の項目ご参照。これによれば、職務上、出入りできないところなく、重要な人物と接触することが多く、情報に通じて言動ひとつ、人事そして政治体制すら左右することもあり、年少より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた武家の師弟を登用するとのことだ。

なお、織部に関しては、少し掘り下げ知りたいのだが、どうもはっきりしない。とにかく、重然を織部とすると、その父は秀吉の茶坊主である。その息子が、商人である利休の弟子というのは、おかしな話だ。現時点では織部の経歴の出所は、桑原忠親氏の著書ということを理解したまでだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸黒茶碗

筒型であるが、美濃桃山の特徴である掬い手、端反りそして端内削りを持つ。引出し黒で漆状の艶をもつ。ご覧のとおり、渋く、切り立つ岩場が思い浮かんでくる。茶だまりがある。内側は外側に比べると、轆轤目を目立たないようにしているなど、その他にもきまりごとをもっている。ただし、理解できているのはこの当たりまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陶硯と水滴

陶硯は、重厚なところがあることから美濃の窯が登窯になる前、大窯の時代、天正から文禄の間のものと思われる。水滴は、瀬戸焼きで、推定、鎌倉あたり。取り合わせると唐三彩の彩りとなる。

 

 

最近の書

桃山時代の織部の陶硯を使用して書いた。

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.05.23 衣

 

最近、昔に購入した背広など衣類を盛んにお直しして身に着けてみている。

スラックスで言えば、長さあるいは太さが1cm違うとずいぶんと、着心地、気分あるいは見た目が違うものになることを理解した。

昔に購入した衣類、特にスラックスはほとんど、丈が長く、太さも太い。なにも思わずに身に着けていたことが今となっては不思議だ。

書であれば、半紙六文字程度の大きさの文字であっても、どこかが1mm程度違っても気になることを思えば、当たり前と言えば当たり前のことではある。

なんとなくわが身にジャストなサイズというものを理解できた。ここを1cm程度こうすれば、身に着けたときにこんな気持ちになるという予想がつく。

衣類が好きな人は毎日が楽しいだろうなと思う。ここは衣類に対して興味がかはど長く持続するとは思えないため、今は特別記念セールということになるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  2015.05.14 近況

 

茶碗も続いている。茶の湯を手習いしたことはないが、抹茶用として日常使用している。

片身替り、斗々屋(ととや)茶碗というものがある。

16世紀末頃に、韓国へ注文して造った茶碗といわれている。使ってみると、確かに、日本からの注文ということにはうなづける。

なぜなら、同じ時代の美濃の茶碗によく見られるすくい手、端反りそして内削りが目立たちはしないがそれとなく施されている。

そうそう、

すくい手は、両手で水をすくって飲むような感じになる形。

端反りは、お茶が飲みやすいように、少し茶碗の飲み口が外側に反っていること。

内削りは、お茶を飲むときに、上唇のあたりがスムーズになるように少し端の内側が削ってあるあるいはなめらかな形になっていること。

である。

そのほかに、器の肌合いも、手触り、口ざわりよいような、少し抵抗があるようにしているなど、器として良くその目的を考慮して造っている。

このあたりが、多くの茶碗との違いだ。

織部の茶碗も、形がいびつというよりも、すくい手、端反り、内削りを施しているものが多いが、そういったものは使いやすい。

その意図がわかり、見慣れ使い慣れてくると、自然に思えてくる。

お茶を飲むものということに配慮のない口縁の茶碗が一般的であるので、これらの特徴を持つ茶碗は少数派だ。

そして、なぜかこういった茶碗は、楽茶碗との対比で落とされている。沓形、へうげものなど、明らかに意地の悪さが見え隠れしている。

そうそう井戸茶碗に対する雑器というものある。

まあ、一般的には手にする機会がなきに等しいものであるので、言われ放題だ。

沓形は、すくい手。

へうげものは、逆、 すくい手、端反り、内削りなど飲むことの自然さを追求したもの

雑器、そうではなく、井戸であれば祭器、斗々屋であれば日本からの特別な注文品

とみなしている。

勝てば官軍よろしく茶碗以外でもこの手の落としは散見される。

最近、一般的にはこういわれているが実は的な話で面白かった本がある。

 本能寺の変431年目の真実 明智憲三郎

 日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎の赤穂浪士の討ち入りの話

だ。論の進め方など理系的で好ましい。

そう言えば、書でも、楷書の「一」の書き方に対する押して引いて押して的な話もかってはあった。

茶碗と書に対するその手この手の話は、古き善き文化を隠してしまうことが残念なところだ。

 

 

 

 

  

  2015.05.05 近況