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日々雑感 |
研賜 |
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集字聖教序 H25.1.19 |
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久しぶりに、王羲之集字聖教序を臨書した。 文字を大きくしたり小さくしたり、線を太くしたり細くしたりしてみたが、自然な感じで指先が反応する。 身についたところがベースとなってくれている。他の方の書法の善いところは参考にするような感じで利用できる。
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王羲之集字聖教序 |
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楷書 H25.1.18 |
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願真卿東方朔画賛の臨書初めてから11年である。この方の書は文字を大きくするために学ぶと教えていただいた。 はじめから拓本で書を学ぶと硬い字になってしまうとうことで、最初の頃は、先生の臨書で、すこしたってからは拓本と両方で、最近は拓本で臨書を行ってきた。今回古典書法に一区切りをつけることができたというのはこの書のことである。 楷書への沈潜中は、この書の臨書を行っていた。 したがって、文字を大きくするための技法を学ぶことに沈潜してきたことになる。 しがしながら、今まで、文字を大きくすることの意味を実感できずにいた。なぜなら小さい文字も書くことができる。 久しぶりに他の方の書の臨書をおこない理解できた。 この書を学ぶと、線を太くすることが容易となる。 文字を大きくする=線を太くする。これを指先の実感として理解するのに11年要したことになる。
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楷書 H25.1.16 |
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このホームページを見ると、古典書法5年目に楷書に沈潜している。約6年間楷書に沈潜していたことになる。
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区切り H25.1.15 |
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目標があるようでない状態であったが、とにかく書道を続けてきた。 しかしながら、今年の正月に作品を完成できたことで、古典書法自体に一区切りをつけることができたような気でいる。 作品についてはまた別に紹介してゆくことにするが、古典書法12年目は具体的に目標を定めて進もうと思う。
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10年 H24.10.13 |
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早速であるが、能の謡の稽古を2度つけていただいた。 もちろん、自分の謡では気がとびかうことがない。書と似て、真剣にとりくんでも少しずつしか上達してゆかないものであることが理解できた。 能の稽古を間近で見て思う。 筆が身、筆は手指が、身は体の芯の筋肉が動かす。謡の声は体の芯の鍛錬の現れ。 書は、中鋒つまり筆先の中心を線の中心とすることが大切だ。そしてそのために、筆先から帰ってくる力を感じて、無理のない自然な動きをすることを心がける。 能はというと、どのようなときにも体の芯が決まっている。重力を、体にかかる力を、繊細に感じ、合理的かつ無駄なく動き静止しているように感じる。なんともカッコよい。体の動きそして静止が自然の摂理である。 謡の声が気となって、あたりに飛び交う。強靭な丹田の力。長い年月をかけて繊細かつ剛直に鍛えてゆくものなのだろう。 り先生は楷書を書くときに大きな声をだしていたそうだ。おそらく、丹田から発していたのであろう。能に出会ったのも、丹田を鍛えなさいということなのだろう。 謡を、無我夢中でしているためか、書のように、体の血の流れというのか気の流れというのか、その類のものが、静かに落ち着くような感じは今のところない。謡の種類にもよるのかもしれない。 ただ、熱く燃えるようなものが常にともなう。書と能は陰と陽の関係にあるように思える。両方で完全だ。書がどのように変わってゆくのか、継続することができれば10年後が楽しみである。
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謡H24.9.14 |
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能教室を見学にいってきた。 稽古を見せていただいたのだが、次の日まで、気というか魂というのか霊というのか、書道であれば墨蹟付近にただようものが、かなり広い空間の中を耳に残った謡の声とともにとびかっていた。 能の謡が、腹を中心とした体の中の筋肉を使い歴史のある形で発声していることによると思われた。 早速、呼気の時に、やや過剰に丹田の力を使用し、臨書を試みた。書道に応用できそうに思える。 謡であるが教えていただけることとなった。それにしても古典書法に出会ったときと同じ位に、能そして謡には驚いた。 間近での古典芸能の見学による。
臨書 顔真卿東方朔画賛碑
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孔子H24.8.29 |
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能に興味を持ったのは、 身体感覚で「論語」を読み直す 安田登著 を読んだことによる。 身体感覚という語に惹かれて本を手にしたのが出合いのきっかけだ。多々感心するところがあった。 この中で、 「当時の文字は神さまにたいして使われる呪的な象徴であり、それを扱うための特殊な職業があったようだ。その職業は「史」とよばれていて、孔子がその「史」でなかったかといわれている。」 という内容の紹介がなされていた。
中庸は孔子の孫が書いたとされていて、この中庸は書に深いつながりを感じることができる。こうして、論語にも身体感覚的に深く興味を持つようになった次第である。 論語の個々の内容はおいておくことにして、孔子が史で当時の古典書法で書をしていたのであれば、論語の中心となる思想・感覚が中庸であり、中庸によって生み出された言動が、イコール論語である。 中国戦国期の楚帛書が中庸が書かれた頃のものである。したがって、この筆法による手指を中心とした身体感覚が論語を生み出したことになる。
中庸に言う。 「天命、これを性といい、性にしたがうことを道という。そして、きよめた道は教えという。 道からは片時も離れないようにする。離れることができる道は、性によって作られた道ではない。故に、気づいた人は、見ていないところを戒慎し、聞いていないところを恐懼する。 隠れるより見えることはなく、微かであるより顕れることはない。故に感じた人は、気をつけて、一人進む。 喜怒哀楽がまだ発していないところを、中という。現したものがことごとく、中そして節であるならば、それは和という。 この世において、中は、大いなる本である。和は、求めるものに達することのできる道である。中和に至りて、この世は、落ち着き、あらゆる物が育つ。」
さらに意訳する。 「天命によって与えられたものを性格といい、性格にしたがうことを道という。そして道は清めることで、教えとすることができる。 道からは片時も離れないようにする。離れることができる道は、天命による道ではない。これに気づいた人は、まだ見ていないところを戒慎し、聞いていないところを恐懼することだ。 書するとよく分かるが、隠れていることより見える状態はない。微かであることより顕かなことはないものだ。故に、気づいた人は一人進むようにする。 喜怒哀楽のまだ発生していないところを、中という。表したものが、中そして中を含んだ節であるならば、それは和しているという。 この世に書において、中鋒は、大いなる本である。書を和すること、それが求めるものに達することができる道でもある。 中を徹底することで書を和することができるようになると、この世は落ち着きあらゆる物がそこから育つ。」 さらに、 紙、墨、筆、我、文字そして文字の意味が、無を通して一体となった結果が和である。我を突詰めるなら、我は手指の作る空間で空しいものである。無の空間を、研いだ神経と磨いた技術をもって意識することなく操る。手指神経の活動が意識を生む、和した神経は和した思考を生み、それが心身に帰り行動となり、この世となる。和した行動によって生み出されたものは落ち着いたものであり、そこにおいてあらゆる物が育つ。 古典書法に初めて触れたときの感激がよみがえる。 (推敲が必要な文章をそのまま掲載。) |
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呼吸H24.8.27 |
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古典書法では呼吸が重要である。この呼吸をすればこの形の線が現れるという関係にある。一年前から中国語を習っているが、中国語を話すのに、書道の呼吸を応用すると発音がうまくゆくことが多い。 丹田付近あたりを中心として体の中の筋肉を使うのだが、なれていないため、体の中の筋肉を強く動かす必要があり、語学は疲れる。中国の方はこれを無意識にしているということは、書をするのに必要な体の中の筋肉が発達していることになる。 最近、能に興味を持ち、鏑木岑男(がぶらぎみねお)氏の謡を聞いてみた。直感だが、道は違えど、この方の体の中の筋肉の使い方は、筆者が書において理想としているものと同じだ。 歴史ある能のことであり、書に善い影響を与えてくれると思われる。近いところにお住まいのワキの方がおられれば謡を習ってみたい。
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りんごの中の窓でりんごを食べるH24.8.27 |
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引っ張りだしてきた古いWindowsXpマシーンは、突然インターネットと接続できなくなった。原因は不明である。仕方なく、iMacでWindowsを使用可能な状態に設定し、使いなれていたホームページ作成ソフトを導入した。 作成したページをアップロードする際などに、時にしばらく固まってしまう場合があるのは困るが、これで、 iMacの中でWindows用のホームページ作成ソフトを動かし、ホームページは、Windowsで作成したページをメインにして、iMacで作成したページを呼び出せるようにできた。 のはよいが、りんごから一部脱出するのも目的のひとつであったので、これではりんごの中で踊っているような気がしないでもない。
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アップルはあH24.8.19 |
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先ほど、iphoneのホームページ乗っ取りを防ぐ方法を見つけ修正しておいた。 もしかしたら、iMacで作成したページの方に不都合がでているかもしれないが、要すれば、必要なところはwindowsで作成するページの方へ移すことにする。 画面が縦長で見やすく、キーボードが使いやすいのは良いのだが、引っ張りだしてきたwindowsマシーンは、インターネットを閲覧すると非常に良く固まる。どうも、パソコンはこんな感じで、悩みと設定の時間が多い。
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古典 H24.8.19 |
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中庸に言う。天から命じられたものを性格といい、性格に従うことを道という。 感覚として、天のありかは頭のはるか上の方だ。 10年程前、古典書法に出逢った時の感激はここ(易)によく現れている。ただし、自然の摂理は我が身の中にあるというよりは、感覚としては、法の方にある。 書法によるにしても、東洋の歴史ある古い教えが、我が身の中から自然に出てくることは未だに不思議かつ驚く。 古い教えに言うとおり、我が身の感覚とは別にして、人は宇宙の一部であるとともに、宇宙そのものでもあるということなのだろう。 これは実感であるが、思考は、脳がというよりは、体中の神経細胞の活動の結果として現れるものだ。文を書くのは手の活動によるところが大きい。精霊を感じるのは足であろう。そして、定まった型に相当する法に従い身を動かすことによって、現れる思想が存在する。 老子、論語、陰陽、易の本となるところは、楷書の書法により、現れたものであろう。古いところでは中国戦国期の楚帛書に楷書の書法が認められる。 もちろん時系列から言えば楷書の後の世のもので、楚帛書で見られる書法が、後に楷書を生み出したことになる。
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古典 H24.8.19 |
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中庸に言う。 「天命、これを性といい、性にしたがうことを道という。そして、きよめた道は教えという。 道からは片時も離れないようにする。離れることができる道は、性によって作られた道ではない。故に、気づいた人は、見ていないところを戒慎し、聞いていないところを恐懼する。 隠れるより見えることはなく、微かであるより顕れることはない。故に感じた人は、気をつけて、一人進む。 喜怒哀楽がまだ発していないところを、中という。現したものがことごとく、中そして節であるならば、それは和という。 この世において、中は、大いなる本である。和は、求めるものに達することのできる道である。中和に至りて、この世は、落ち着き、あらゆる物が育つ。」
そう、微かであるより顕れることはないというのも指先的には実感である。
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微かH24.8.19 |
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東方朔画賛碑の残版部分、そして後半部分にあたる陰の記の臨書を比較してみる。書中の意識は、陽と陰で違った。 さて、書いた結果も、動と静のように陽と陰だ。
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前半部分から |
陰の記から |
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アップルはあH24.8.18 |
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しかし、困った。iphoneで、 にアクセスすると、iMacで作成したページに飛んでしまう。 ホームはWindowsで作成したページだ。 iMacあるいはWindouwマシーンからは意図どおりにホームへ進むことができるようにはできたが・・・。 iMacでは、iWebというAPPLE製のホームページ作成ソフトを使用したが、indexページに対して自動でなにか制御してしまう癖がある。このようなところまで自動でしてくれることは望んでいないのだが・・・。 GPS、音声認識、メールの管理技術、タイムマシーンという作成ファイル記録技術、クラウド技術など、アップルの製品を使用すると、個人の行動がそのまま記録に残り管理可能なことがよく理解できる。SFの世界があっという間に現実となりつつあるような不気味さがある。 世の中の動きを知るためにもパソコンを買い換えて使いつづけてきた。この目的にアップルの製品はよかったのだが、なんとも・・・・・・・
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雷H24.8.18 |
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ピカッと光、間髪なしの大音響。時に、光が部屋の中にまで風となって飛び込んでくる。雨も横殴り。胸がどきどきする。今、雷の渦中にある。ここまで雷に接近したのは初めてだ
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沈潜H24.8.18 |
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これも、自分のホープページを調べると、古典書法5年目に楷書に沈潜と宣言している。いま、11年目である。6年ほど沈潜していることになる。これは書である。さほど長い期間とは言えまい。 ゴールデンウィークもそうであったが、この夏季休暇も顔真卿東方朔画賛碑の臨書に取り組んだ。今回は陰の記を含め、半紙6文字、合計180枚の臨書を終えることができた。終えるといっても、直前までに定まっていた書法で、最初から最後まで一定の調子で書く事ができたという意味だ。ただし、前半の部分と後半の部分である陰の記では、陰陽の使い分けをしたので調子を意図的に違えてはいる。 腕ならし指ならしを約1日半。今回は、意外なことに午後の時間帯それも夕刻頃に、墨の磨り具合、筆の状態、手指の動きそして呼吸が良い状態で一致した。夜の時間は書くことをしなかった。日曜日から木曜日までの5日で書き終えた。 まだ少し休暇が残っているが今回はこれで良いと思う。今年はあと一回、このような全体を通した臨書に取り組む機会がある。
顔真卿東方朔画賛碑臨書 |
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姿勢H24.8.17 |
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H23の雑感を見ていると、机のことを書いている。書に適した姿勢を求めたもの。1年半ほど、床に座る姿勢を探っていたことになる。正座では足がしびれるため、正座用の椅子を使用し、座禅をくずしたような座り方をする。 今のところは、長時間書に取り組む場合は、イスを使ってしまう。身に合わせ足を少し短くしている。スウェーデン製のバランスチェアに座るような感じで座る。バランスチェアも試したが不安定なところには馴染めなかった。 大きめの文字の場合、頭頂から肛門に至る体の中心軸(以降、体心ということにする)がイスの座面と交わる点を支点する。足はつま先立てて、両端をお尻の下に入れた状態から、左足を少し後ろに、右足を前の方に伸ばす。股関節は内側に閉め気味にする。この足構えにより、上体の前後方向の動きを誘導するあるいは支えることができる。左手の平あるいは左肘は、体の左右方向の動きを誘導するあるいは支える。文字の大きさあるいは紙のどの位置に書くのかによっても適宜移動させるが、大きめの文字を書く場合のニュートラルの位置は、体の左側の前だ。 体心は、鉛直方向に一致させれば足あるいは左手の支えを必要としないが、これでは気を使った文字を書くにくい。 体心を適宜傾ける必要がある。これを、両足、左手あるいは左肘で支える。右手そして筆は、ニュートラルとなり、力を抜いておくことができる。中鋒を基本とした動きを自ずととることができるようになる。 さて、姿勢とともに呼吸は重要だ。気を発生させる元となる。小周天を意識している。吸気は頭頂へ向かい。頭頂をさらに上へと引き上げる。呼気は、胸から腹、肛門、背中へと回りながら移動する。息を止める場合は丹田あたりに優しく留め置く。 横画は陰にあり、優しく丹田あたりを中心として気あるいは呼気を回転させる。縦画は陽にあり、呼気は、肛門を締めながら、丹田より下の方で力強く回転させ、体全体ともに上へと浮き上がる。もちろん肩腕手指は柔らかなままである。 これら姿勢そして呼吸の結果が、文字となって紙に現れる。書く文字数が少なければとうにかなるだろうが、文字数が多くなるにつれて、姿勢と呼吸は重要だ。時間を於いて自分の書いた文字を第三者的に見ることができるようになれば、姿勢と呼吸のでき具合そして継続性も一目瞭然となる。嘘偽りの入る余地は限られる。
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右手指重しH24.8.16 |
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右の手を結び開いたりするときになにか重さを感じる。老化か、書に影響するのでかなわんなと思っていた。 左との差を調べてみたところ、右は、指がどの位置でもなにかをつかんでいるような充実感をともなう。特に筆を握る形に近づくにつれてこの感じは顕著だ。どうやら、肩の力を抜き、手指が作る空間の中で筆が自由に動くようにして書をすることの成果である模様だ。 今、夏季休暇中で、先週の土曜日から昼間の時間帯に、楷書の臨書に取り組んでいる。今日は、遅れている人差し指も充実感をともなうようになってきた。 おそらく、人差し指は、書に稽古を求め続ける指のようだ。
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お久しぶりH24.8.16 |
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iMacによろこんでいたのだが、どうにも進まない。自動でしてくれるのはよいが、いざこうしたいと思ってもそのとおりすることが困難だ。そうこうするうちに、APPLE製品は買い物や動画を見るためのマシーンとなった。これは本意ではない。 このホームページも久しく更新していなかったこともあり、このホームページを始めた頃に使用していたSONYのノートパソコンを引っ張りだして見た。キーボードが手に馴染んでいる。入力が快調で、雑感を記すのに良い感じだ。 iMacで作成したページは、そのままにしておくが、もしご覧になるのなら、プラウザの戻るボタンを適宜使用して見ていただくと見やすい。
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