秋雲    研賜

since2002

 

 

 

 

 

 

  

 

 

17年目

 

 

 

 

6月21日

今日は夏至だな。朝起きたときにわかった。

瓢箪を心、ナマズも心のことという説あるも、そんな限定は必要ない。

仏に仕える人が、将軍様から無理難題を言われたときにどう答えるのかが瓢鮎だ。

心に限定するのでなく、それぞれの人に立場で同じ状況はたくさんある。

それに役立てれば良い。銀閣金閣寺の室町時代、国宝である。

最も我は今のところ技術者なのでこれは面白がってしているのみ。

ただ、不思議だ。筆を使って書くとお坊さんの気持ちが伝わってくる。そして、将軍様の気持ちもだ。

 

 

 

 

 

6月21日

 

 

 

 

 

 

 

二十四番目のお坊さん

 

「瓢箪はわしづかみじゃ

ナマズをおさえるぞ

大雑把? わしは繊細じゃ

律儀に ネバネバをいっぱいだしやがる

笑え

わしは死ぬまでやってやる」

 

豪快なお坊さんだ。

禅宗のお坊さんのイメージにピッタリの答えだ。

でも、だれか助けてあげて可哀そうだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

二十三番目のお坊さん

 

竹竿のてっぺんで身を翻す

ハヤブサも近づくことができないほど早い

笑いながらコロを持ちおさえてしまう

天然の妙手

この人を見なさい

 

 

仏教ではコロナマズはできないことになっているので、

ハヤブサも近づけないほど速い人もいないということになる。

が、二十三番目だ。分かるのでコメントをする気になれなくなってきた。

あ、そうか今日は進みすぎただけのようだ。

少し前にできないものの例を探していたではないか

本当は、自分なりに創造してから次に進むとよいようだ。

また、ブーメランのように後日戻ってくることにする。

 

最近、youtubeで西城秀樹の歌を聴いている。

アイドルという色メガネで生前はなにも感じていなかった。

歌がうまい。心に届く、脳梗塞を患ってからの生き方にも感動

丁度、ブーメランが流れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

二十二番目のお坊さん

 

一匹のなまずが波間から躍り出る

コロをおさえることも難しすぎる

すりぬける

これ滑る

おさえられない

大力量の人でも

どうしようもない

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

二十一番目のお坊さん

 

ナマズは身体が滑る鱗もない

ひょうたんはおさえようとすると水の中で

クルクルと回る

まるで子供のようだ

言うことはきかないわ 

にぎやかだわ

左に逃げるわ

右に避けるわ

 

 

漢文をそのまま訳すよりも、この方が言いたいことがわかるような気がするし、こんな言い方をしたら面白いわ

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

二十番目のお坊さん

 

 

コロをおさえつけようとするも

ころころだ

ナマズに触ってみよう

うわ イナズマだ

あれ いない

竿に登ったぞ

ああ 龍となって飛んでゆく

 

 

瓢箪をコロとそのまま書くと響きが良くなる

ナマズとイナズマも良い感じだ

さて、漢訳は右だ

 

 

 

 

ナゼダロウ テユビがウマクウゴカナイ

ギクシャクギクシャク

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

お昼ご飯を食べた。さあ、復活だ。

 

十九番目のお坊さん

 

 

ナマズはおさえなければ

竹竿の上に登ってしまう

瓢箪は水の中でコロコロと回る

尾を振って龍となって登ってしまわないようにしています

将軍様 どうぞお楽しみください。

 

 

これは困る。問題を出した手前、ずっとみていないといけない。

苦笑い若しくは困惑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十八番目のお坊さん

 

石の人

水の上、瓢箪をおさえた

ひとつ ナマズもおさえた

おさえたが、おさえられない

いつまでもおさえようと、触れるのは良いが

身近な大事なものを喪う

 

 

 

なにか、コメントが思い浮かばない

今日はこのあたりでやめておいたほうが良さそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十七番目のお坊さん

 

 

 

瓢箪をさげ

歯ぎしりして ナマズをおさえようとする

瓢箪もナマズも滑る滑る

傍から見る人大笑い

 

 

確かにそうなのだが、

同じアホなら・・

と付け加える気にならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十六番目のお坊さん

 

ナマズや

頭おさえろ つぎは

尻尾だ

ひょうたんは、左にころころ

右にころころ

つまづき倒れて 泥だらけ

傍で見る人

ろころこ笑う

 

と調子がよい。

申し訳ない付け足すと、

 

同じアポなら踊りゃな

ソンソン

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十五番目のお坊さん

 

 

ぼろをまとった僧のようなナマズが、水底で活発に動きまわる。

なにか、いまにも龍に変化しそうだ

偶然、瓢箪をおさええた

龍が門に登ってくるのを待つとしよう。

 

 

だれか期待している弟子がいそうな雰囲気だ。

こういったときは、できないこともできそうな気になってくるので瓢箪をおさえることができたことを仏さまも許してくれるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十四番目のお坊さん

 

 

ひょうなんをなぶるのも、顔回や許由とはまた違う

なまずをただ深淵にみる

おさえられるか はた

おさえられぬか

あっちでおさえ

こっちでおさえ

 

 

わたしは頑張っています。

 

 

 

 

今日はだいぶ進んだ。わたしも頑張っています。

今の日本語の豊かさにおどろく。あんまりだ。

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十三番目のお坊さん

 

将軍が読むことが分かっていてなおかつこのようなことを言ってもよいのだろうか

義満の弟、義持の叔父。天龍寺、南禅寺に住すとある。

それは置いておいて将軍は大物なのでまあ良いか

 

 

ナマズは 元気はつらつだ

おさえることを いつになったらやめられる

だれだ、これを笑うのは

将軍の御前であるぞ

 

 

無性に、十一番目のお坊さんが気になる。

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十二番目のお坊さん

 

「何者じゃ、はなはだしく、滑る。

ああ、ナマズの尻尾だな。

大ひょうたん そんなものおさえられるか

ほっておくぞ

けしからん ぷんぷん」

 

これを漢文にすると

 

 

 

なにか良い感じがする。技術者をやめようかな。このあたりで遊んでいると気楽で楽しい。

古典力学の範囲に相当する感じ。日常のほとんどがこのあたりで済む。

 

瓢鮎はやはり国宝でした。おおむね、汲めども尽きぬ井戸のようだ。

 

 

 

 

 

6月200日

 

 

 

 

 

 

 

十一番目のお坊さん

 

仏教では、瓢箪でナマズはおさえることができないことを前提に答えを言うと聞いていたので、この答えには、ちょっとびっくりした。

「聖朝=室町幕府=この質問をした足利義持(4代目将軍 在任1394−1423)の恩は、沢に溢れ、遊泳しているナマズにも及んでいる。

水中を行くときは蛟龍をも避けることがなかった戦国斉の勇士、孟賁の力を使うまでもなく、瓢箪でナマズをおさえるておくことができる。」

 

このお坊さんの顔を見たくなったので、右にお坊さんの書も掲載しておく。

この時代の禅宗は、仏の教えよりも、将軍を優先している。

昔、僧は、時の政権を警備する役目(=軍人)も担っていたとなにかで聞いたことがある。禅宗のお坊さんのイメージのひとつとしても、骨太の体躯に太い声だ。比叡山にしても、愛宕山にしても、交通の要所を守る役目も担っていたのであろう。

この答えからはそのような役目も感じることができる。歴史に残るものに選ばれて答えを書いたのだからこのお坊さんは高僧。忖度も感じられ、今の世と同じだというのが率直な感想である。

 

 

 

 

 

升目を使わずに、普通に楷書を書くこともひとつテーマとしているのでそのようにして掲載する。

 

日野武道研究所の日野晃氏の書いているものを読むと、胸骨の動きと肘の関連が実感できる。最近は、胸骨も気にするようにしているものの、書の場合は、丹田で発生した力が、柔らかく指先を通して筆先に現れるイメージがある。楷書で書く字体の骨格に買われるのは、主にこの丹田の力である。

 

11番目のお坊さんの書

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

十番目のお坊さん

 

 

「瓢箪をもって、泥の中にナマズをおう。

我、思うように自在に手が動く。

どうしてナマズをつかまえることができよう。できはしないさ。」

 

「どんぐりころころとんぶりこ」でも良いような気がする。

 

 

 

 

 

 

6月20日

 

 

 

 

 

 

 

九番目のお坊さん

 

 

なんとか物理的になまずをおさえようと考えている技術者がここにいる。

 

その前で、

「ひょうたんがなまずをおさえるのか、なまずがひょうたんをおさえるのか、

一生は、ただこのように過ぎてゆく。この天地のもとで」

と、言葉が過ぎてゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月19日

 

 

 

 

 

 

 

大きな瓢箪を出してきたところを面白がったが、立場を忘れて楽しんだことに気づいた。

 

おおきな瓢箪であれば、口を大きめに切り取り、反対側は小さめの穴をあけて、この中にナマズを掬い取る。

そのあとに、切り取った口で、蓋をして、ナマズが逃げないようにすれば、水中にナマズをとどめることができる。

おさえたことにならないというのなら、切り取った口を、反対に向けて蓋をすれば、ナマズをおさえることができる。穴をあけたところ、あるいは切り取ったところに指をかければ滑ることを防ぐことができる。

 

 

 

 

 

 

 

6月18日

 

 

 

 

 

 

 

八番目のお坊さん

 

なまずをおさえるのになんのつもりぞ

その大きなひゅうたん

おさえとどめても

おさえられなくとも

どちらも

笑い事

たのしいさ

 

 

これは、

 

やってみなさい

バカげたことを

バカまじめにやってみれば

どうでもこうでも

たのしいものさ

 

という感じか。

大きなひょうたんを持ち出してくるところがとても好ましい。

楽しそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

6月17日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集団の中で決まり事。その範囲での受けこたえ。

お坊さんと言えば、テレビアニメの頓智の一休さんのイメージが強い。

七番目のお坊さん

「ひょうたんに油を塗り、急流のなまずをおさえる。

おさえてはおさえては逃げられる。」

 

 

仏教では、ひょうたんでナマズは無理なことの例というのが前提であるから、このお坊さんはこの通りというか、さらに急流のなまずに向かうのであるから条件を悪くしている。

不可能なことを証明するのに、もっと条件を悪くしている。

これでは、滑っておさえられないのか、なまずが急流にあるためおさえられないのかわからなくなる。

立場の上の人に無理なことを言われた場合に、無理と思いながら、このようにとりあえず、言われたとおりにやって見せるということは日常目にするが、言われたとおりよりも、もっと話を難しくして実行している。

これは、難解だ。できないことなのでどうしようが同じことでしょうということか。

これには、相手も困るだろう。言うに言えない状態になる。

これはこれで面白い。

 

 

 

 

6月15日

 

 

 

 

 

 

 

六番目のお坊さんはというと

 

「竹竿は滑る。ナマズを得ることは無理。おさえられないところ 

ころころ」

 

 

これはなんというか、

ひょうたんでなまずをおさえるようりももっと無理なことを示し、そして

水中で回るひょうたんにカメラを向ける。

なにか、映画のワンシーンのように洒落ている。

 

しかし、竹の葉が風にそよいで我を誘う。

 

申し訳ない。画に書いてある竹は葉がついた枝のところが多い。

葉をそのままに籠をsみ、この中になまずを入れておけば、水中でとどめおくことができる。

 

なにも、なまずが飛び竹の上に位置するのを永久に待つ必要もない。

 

 

 

 

 

 

 

6月15日

 

 

 

 

 

 

 

超訳という感じで、訳の方が楽しくなってきた。ただし、

少し眺めていると、同じような答えが多いことに気づいてきた。

これは、ナマズも、ひょうたんもどちらも水中にあって押さえておくことがむずかしいもので、仏教の世界では、おさえておくことがとができないものと考えることとのことだ。

そうした前提があってのお坊さんの答えだ。

まあ、頭の体操として続ける。

「ここにたくさんの瓢箪がある。油を洗い流し、砂をつめて、口に蓋をして、なまずの背に積む。

一、二 ・・・・ 千」

 

 

 

これならなんとなくいけそうな気がしてきた。

 

さて、五番目のお坊さん

 

一つ、瓢箪の下の方を、急ぎ良く見なさい

これではおさえられないと思ったなら、瓢箪は飛んで竹竿の上にのるであろう。

 

簡単に言えば

・・・・・

できないことを例えというのであれば、

・・・・・

あー、なんだろう。

できないと言わないというか言えないというか、

ナントカシヨウトマズハ考えだすため、ナントモ思いつかない。

 

 

 

 

6月13日

 

 

 

 

 

 

 

四番目のお坊さん

これは、仏典、漢籍など常日頃勉強していることを披露する場のようだ。

水上水中の瓢箪は捕まえがたいものというのが常識。なまずもそう。

さて、

「瓢箪は転がり、ナマズは泳ぎ周り、跋扈する。

天、地、山、川、草、木、皆、質問に失笑している。」

 

簡単に言えば

「なにをおっしゃいます。お天道様が、笑いますよ。」

だが、これでは、自分がないではないか。

「ハハハ」のほうが良いと思う。

四番目のお坊さんは

「ハハハ」いや禅宗のお坊さんであれば「ハッ! ハッ! ハッ!」にしておく。

いや、

「へそが茶を沸かす」

の方がよいか。

 

 

今のところでは、三番目のお坊さんの

「どんぐりころころ、どんぶりこ

いつまでたっても、どんぶりこ」

がお気にいりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

6月12日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三番目のお坊さん

あまり期待できるところはないものの続ける。

 

 

こうなると、書は、非難がましいことをいうことをゆるしてほしいがためのものになりつつある

さて訳は、

「ひょうたんころころ、なまずは首短く腹太い

なまずを得たいなら、竹に跳び上がるを待て」

 

コロコロから、なんとなく、あまりの質問に投げやりになっている感じが伝わる。

そうすると、この方が良いのではないか。

「どんぐりころころ、どんぶりこ

いつまでたっても、どんぶりこ」

ちなみに、このお坊さんは質問をよく読んでいない。

水の中で、おさえておく方法を問われている。

 

また、2番目のお坊さんで、

「なんとも、すばらしい天気ですね」

という答えでもありのような気になってくる。

 

 

6月12日

 

 

 

 

 

 

 

課題をよく読んでいると、捺住、捺留しなさいとなっている。

水の中でおさえておくという感じだ。浅めの柔らかい籠を二つ作り、押さえておけばよいように思う。

 

さて、2番目のお坊さんはというと、

 

解説をなんどか読んだが、しっくりした訳が浮かばない。

こんな感じにしておく、

「一つ、なぜ、ひょうたんでなまずをおさえようと思う。

江湖は広く水をたたえ、道も満ち足りている。」

 

人の世で、天の助けのもと、せいいっぱい努力をし、なにかを成し遂げ、久しぶりに渓流の地を訪れ、悠久の時の流れ、自然の深さ、天の恵み、人との縁などに感謝しつつ、満ち足りた思いでいるときにこの質問をされた場合に、このお坊さんのようなことを言うと良いように思う。

しかし、これでは質問になにも答えていないというよりも、質問を非難している。

したがって、訳は、

「この状況をよく見なさい。なにも、そんなことしなくてもよいではないか。」

となる。

 

そうすると、一番目の坊さんの言葉は、

「そんなことできっこない。」

がよい。

 

だんだん、いらいらしてくる。

瓢箪の口に蓋をし、くびれにテグスを結び、他端に針そして餌をつけ、なまずに食べてもらい、針をかけた状態で、ひょうたんを水に漂わせておけば、住と留はできそうだ。が、痛くして申し訳ないが・・・

また、これでは、おさえるということにはならない。

なにも、そんなことをしなくてもよいではないかよりはヨイヨウナキガスルガ

 

 

 

 

 

 

6月11日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1番のお坊さんは、

「ひょうたんでナマズをおさえる。

そしてお吸い物にする。

さて、ご飯がない。砂を炊いてみる。」

だ。

 

結局とれないということをいうのに、ご飯がないので、すなを炊くという言い方にすりかえた。すなをたくとは仏典でも使われていますという感じだ。

 

我は工学系の技術者なり。例えば、ヌルヌル油を洗い流し、瓢箪を水につけてふやかせて、細く割き、籠として編み、この籠で鯰を捕まえる。

 

 

 

 

6月10日

 

 

 

 

 

 

 

瓢箪・鯰を、再び検索してみると、良いホームページがヒットした。

 

https://intojapanwaraku.com/art/20161013/5444

http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/yoshi_f02.html

 

序文を書き写してみた。

 

書いた言葉は、別紙に書いて画に張り付けているように見えるにしても、後の世に残ることが確実なものに、自筆で自分の考えを書いた方の気持ちがわかるような気がしてきて、ドキドキしてきている。

さて、お坊さんたちは、ひょうたんにヌルヌルの油を塗って、なまずをどうやって捕まえたのか。

 

 

 

 

 

6月4日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は、東寺の市で、筆を掘り出した。

中筆くらいで、楷書をかけるような穂先のバランスをしている山馬筆だ。穂でいうとφ10mm×50mm

墨を含ませて、穂先を整えると、穂先の先端、最後の一点まで力を伝えらことができるようにまとまる。

竹軸の色合いを見るとすこし前に作られたもののようだ。

行書を書いてみたところ、好ましい線になるではないか。ただ、筆の作り自体からは楷書を意識して作られたもののように感じる。固い毛の質からおもしろい線になるのでこのような使い方をしてみた。

 

山馬筆自体めずらしい。楷書に意識をもって作られたとなると、今後、出会えるような気がしない。書道の道具に詳しいとは言えない店で見つけたので、掘り当てた感がある。

 

さて、この筆でひょうたんなまずと書いてみたが、意味が気になる。インターネットを検索した範囲であるが、意味を確認できていない。瓢箪でナマズをおさえるとかいう意味で禅の公案と書いている記事が散見されるが、禅の公案にこのような言葉はないという方もいる。

気になると言えば気になる。

 

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ヒョウネン ひょうたんなまず

瓢鮎

 

5月21日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蘇軾の書についてはあまり参考にするところがなかったが、自運と比較ついでに、今日は藤原行成の白氏詩巻の一節を書いてみた。

書は続けることが目的としているためか、余り点画を省略する必要性を感じない。自運は楷行書が多い。

指先的には、藤原行成白氏詩巻の文字はだいぶ大きく感じる。藤原行成の書からは、筆使いのうち、軽く早く書くことができるところについて多くを学んでいる。楷行書で早書きできるのもこの書のおかげだ。

なにか、懐かしいものがある。

 

 

左が藤原行成 白氏詩巻、右は自運

 

 

5/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「花鳥・山水画を読み解く

中国絵画の意味

宮崎法子」

を読書中である。

常々、中国宋代の絵画にすばらしさを感じていた。

さて、本に書かれている内容の一部であるが、

宋代は、

科挙による管理登用制度が本格化した。家柄に関わらず試験委受かりさえすれば地位と名誉と権力と経済的保障が得る時代である。強要されなくとも進んで儒教の古典や教養を身につけようとする時代が始まった。

山水画は、科挙に受かった教養豊かな高級官僚=士人、それも三段階ある科挙の最終試験に合格した「士大夫」といわれるにふさわしい「進士」らが、自らのあり方や精神を反映させた新しい芸術を求めた。書は士人たちの必須の教養であり、技芸である。水墨画は、かれらが常日頃手にしている筆と墨によって描かれる。高い精神性が、長年培った個性的で自在な運筆によて筆先に表れたるものとして、書と同じように評価されるようになっていった。

文人が自在に水墨山水画を描き、その中から一流の画家が排出するまでにはまだ相当な時間が必要であった。北宋時代は、高い技術をもった専門画家たちが水墨山水画の隆盛と発展を担っている。文人にとって、絵画を鑑賞することが、重要で意義ある行為となっていたことも、こういった方面に芸術を発展させる力となっていた。士人の芸術を代表したものは書であった。省は、日々彼らの仕事になくてはならない技芸であり、士大夫は筆より重いものを持たないことを自負していた。

・・

ここから宮崎法子さんのの文章をそのままで記載、「・・・北宋時代には、書の新たな様式を切り開く蘇軾などのすぐれて個性的な対価が現れ、六朝以来の王羲之流の優美な書とはまったく異なる、力強く個性的な種封をつくり上げた。書と同様、筆、紙、墨、硯によって生み出される絵画を文人たち自らが描き始めることは自然な流れであったろう。」

・・・

書については自分で感じることができる。蘇軾の書を調べると、

なんというか多くの人が美しいと感じる形がある。例えば、王羲之の行書、欧陽詢の楷書など。そういった形を収めようとした努力の跡は感じられるが、自分のものとして使いこなせていない。丹田あたりの筋肉、つまり下腹部あたりの身体の内部の筋肉を十分使えていないようだ。(当方の感じ方なので、参考までに当方が書いたものも掲載しておく。大きさは原寸比程度で掲載)

 

進士を出すような家は、実際は互いに姻戚関係によってつながっており、実際には数家族に限られていたという説もあるようなので、蘇軾のように書が後世に伝わるような場合はそういったところに相当する面もあるのかもしれない。

・・・・

さて、また宮崎法子さんの本に戻る。

「・・・・中国の知識人完了によって書斎(文房)で用いる道具、墨や筆、、硯や紙などを去る言葉であった。中国の知識人完了にとって自らのアイデンティティーを示す象徴的な場が書斎=文房であり、そこで使う道具はなによりも大切な品々あった。筆・墨・硯・紙は、文房四宝と称してもっとも尊重された。質の良い文房具を求め、愛玩することは、士大夫たちにとって誰からも非難されることのない趣味であった。宋の墨や硯、紙などはその語も珍重され、大切に伝えられた。また、文房四宝や書物ばかりでなく、書斎には香をたき、梅や菊など高雅で香り高い花を銅器などに飾り、簡素で清らかな空間が演出された。読書や詩文を書くこと以外にも、文人の嗜みであった琴をつま弾き、茶を楽しみ、書画を鑑賞し、庭には鶴を放し、池に魚を放ち、太古石などの奇石や竹や花木草などを配し、室内にも盆栽や盆石、奇石を飾るといった具合に、文人としての価値観に沿った生活と文化が確立していった。南総の終わり頃にはそのような暮らし方についての指南書も出版されるようになった。一方で、それらの士大夫たちの趣味的な暮らしにかかわる部分にあまり深く耽溺することは、天下のために政治に専心すべき儒者(儒教の教えを学び尊守すべき士大夫)本来のあり方からするすれば逸脱であり、玩物喪志(がんぶつそうし、物をもてあそび、志を喪う)として戒められもした。・・・・・」

 

自運というよりはまだ手習い中の書き方

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蘇軾の書

自運

 

 

5/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、朝から、硯を試していた。端渓老坑と紅絲石と自然石だ。右が比較した結果だが大きな違いがない。黒く鋭い線を目指して書いた。硯というよりは、今日はことのほか筆の調子が良い

なお、この程度の文字数であれば、墨の擦り方で石質の違いを吸収できる。どの硯を使っても良い。今は自然石がお気にいりだ。よい感触で早く墨がおりるのは赤い石だ。

 

硯そして墨の擦り方は、1つ確立できた方法がある。ただ、すり心地という点で良いものがないかということで、このようにときどき試しては、やはりこれまでの方法が良いとなっている。

まあ、はがき一枚程度書く場合は、赤い石と自然石はこれからも使いつづけそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5/13

文房具

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文房具は、日本のものが増えてきた。

少し書き物をする程度であれば、中国のものは筆、韓国のものは水滴と筆洗、その他は、日本の石、竹、布などとなった。筆架は、山水情景の古谷石で、机上が山水に変わる。ようやくというか、なにかしっくりきたものがある。

墨は、鈴鹿墨、廃業してしまっているが永寿堂製だ。日本製としては珍しく、サラリとした書き心地だ。墨色が黒いのも好みだ。中国の墨は、サラリとはしているが、黒々という感じのものはない。求めるものの違いと思われる。

筆は、楷書に使うことができるものが大小とり交ぜて、ぞくぞくという感じで集まってきている。いずれも中国製というか、中国のあるメーカーのものだ。筆先の最後の1点まで、毛先の力が伝わるような作りになっている。見た感じで試してみるべきものかどうかをまずは判断する。作り手の楷書への意識は毛先の先の1点に現れる。

紙は三椏の半紙を使用することが多い。肌理が細かく厚みが丁度よい。小筆で、濃く鋭い、綺麗な線を追求するのに適している。

筆が指先のなかで、ゆるく回転するような持ち方は変わらずに続けている。これが肝心要で、うまきさけがわきだしてくる。

具体的な書法の方は、現在はペン字で有名な山下静雨先生に見ていただいている。通信教育なので筆の使い方は墨蹟からの想像になっているが、ひらがなは中国の書法とは異なるところが多い。かなり小さな文字でも、普通にかくことができる状態になりつつある。

筆を使う場合であるが、呼吸に合わせ体の中を気が移動するような感覚をもっている。最近、胸骨の1点に窮屈感がでてきている。姿勢の問題かどうかなど詰めていて知ったのが、日野武道研究所の日野晃氏だ。Youtube、著書を見ながら、胸骨を肘の1点と関連づけて動かすことを中心に、書道と関連付けながら、勉強し始めたところだ。

呼吸に合わせて体の中を移動する気は、肘先と連携した胸骨の動きで説明できそうなところがある。ただし、筆先がほとんど動いていない「ため」のところは丹田あたりの筋肉の力の発生という感がある。胸骨との関連は薄いような気がするものの、そうなのかどうかなどと思いながら書をしている。

硯についても、最近、改めて、種々のものを試してみた結果として、考え方がまとまりつつある。

紅絲石、松花江緑石なども良いものだ。河原に転がっているような固めの石でも墨をすることができる。端渓老坑よりも、擦り心地と書き心地が良いものもある。

端渓老坑には要注意だ。評判と値段が高いものの、黒々と、キリッとした繊細な線で書くことを目標とする場合は、この石にこだわる必要はない。

楠文夫氏によれば

「・・又、水巌(旧老坑)の内部は旧文献によると、大西洞、小西洞、東洞、水帰洞等々の多数の洞窟に別れていることが記されていますが、現実には存在せず、水巌の坑内は下方向に進む硯脈から採掘される、同一種の硯石であることも分かってきました。
 従って、大西洞とか水帰洞等の評価は机上の空論であり現実のものではありません。」

http://www.asahi-creative.com/suzuri/hanashi/hanashi04.html

 

当方も、これは水帰洞のものとして端渓老坑の硯を購入したことがある。売り口上の一つとして、この硯の真価は、清朝の墨でないとわからない。幸い墨もある。小さなかけらだが、うん十万円・・・。

これでは実質確認できないではないか。困ったものである。

筆法、筆、紙、墨そして墨を擦り方がある程度決まらないと、硯の良し悪しの確認は難しいものの、一つ一つ自分で確認してゆくことである。目指すところがあれば、そのうちに自ずと適したものが集まってくるものと考えている。

 

 

 

 

 

5/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5/1に神韻の公演を見てきた。

気功を修めた方々の円舞は楽しいものがあった。ただし、

ちょっと気になるところがある。劇中に法輪という文字が登場し、中国での弾圧の様子を紹介している。

法輪功、弾圧というところは聞いた覚えがある。なんとなくそう告げられずに布教活動を見せられたような気がしてくる。

家に帰り、

ウィキペディアを見ると、気功の一派のようであるが、次の点が特徴とのことだ。

「法輪功では、真の気功を知る者は創始者の李以外おらず、彼のみが弟子の丹田法輪を与える能力を持つとされている。法輪を得た修行者は他の気功では必要な基礎的な修煉が不要となり、最初から高次の修行が行えるという。」 ウィキペディアから

 

古典書法に親しむことで感じることであるが、

呼吸とともに、身体の中をめぐる気を感じ文化的な営みをすることは、人というか人類としてのの長い営みの中で獲得し育まれてきたものである。

そういったところを意図的に排除することにも、個人が付与できるものとすることにも、違和感がともなう。

ウィキペディアに書かれていることの正確さがわからないので、この指導者の方の書いたものを見てみたい気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3/16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神韻

ということで、いくつかビデオをご覧あれ。

http://ja.shenyun.com/videos/latest-videos

特に、次の「中国古典舞踏の紹介」のビデオは興味深い。

http://ja.shenyun.com/videos/about-shen-yun/play/T9pbVaTyV_Q/中国古典舞踊の紹介

 

 

 

書と舞踏という違いがあるだけで、ここで言う古典書法と本質が同じである。

 

演劇中の動作をし、これが、身韻いや神韻であったかといって紹介しているシーン、二胡をひいているシーン共に、呼吸を伴うが、おそらく体の中で感じているであろう心地よさはく同じだ。

古典演劇であれば、同じしぐさでも、流す音楽、内面の思いなどで、まったく異なる人物を演じることができるとのこと。

さて、古典書法においてこれはどうしたものか。楷書で同じ文字を書いてかつまったく違う雰囲気を出すことができるということだろうか。とりあえずは、そこまではまだちょっとである。ただし、書体を違えれば、できないこともない。

 

キインキイン

 

書では筆が回転を伴い動くが、舞踏は人が円を基本として舞い踊る。この際、体の中で感じ現れてくるものが、古典舞踏では身韻となる。

中国国外では、神韻が、中国伝統文化の復興を進めている。。日本人ではあるが、書において当方もその類の一人ということになる。

神韻に触発され、今朝は思いつく言葉を書いていた。呼吸を伴い、書くときに感じるものは太古の海の記憶、安らぎと心地良さ。

書は、皮膚感覚によるところが大きい、しかも、皮膚感覚は、かなり高齢であっても、変わらずにゆっくりと発達しつづける。この劇団に身体の使いかたで確立している身法のように、書も筆法として詰めてゆく必要があるのだろう、ただし、ゆっくりと時間をかけてになるが。

 

中国国内ではなく、中国外で中国文化の神髄が進化してゆく。文化へ畏敬の念とその古典的取組み手法、これは創造の泉である。

神韻は、楽しみだ。

劇を演ずれば、古の人物が舞台にあらわれる。書では、言葉の意味を文字として表すのはもちろん、その雰囲気というのか風采というのかは、その言葉を述べている人物に相当するのであろう。

当方が、おぼろげながらそうありたいと思うのは、水の流れ、渦巻、険しい岩壁など、なにか自然の雰囲気が現れてこないものかである。しかも、楷書にである。

 

 

 

 

キヲハコブ

(正月の書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国の古典である大学の中で使われている言葉である。本にはそれなりに解釈をして意味を書いているものの、どうもしっくりこない。

当方これは、道具を使いこなしなさいという意味にとっている。

物=文房四宝で、格する=正しく使いこなしなさいという解釈である。

 

 

カクブツシナサイ

 

 

 

 

 

 

3/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の正月あたり、進化論に興味をもち、何冊か本を読んだ。

進化論は科学というよりは、宗教に近い印象をもった。とくに、ダーウィニスト、ネオダーウィニストは要注意だ。

突然変異と自然選択、獲得した形質は遺伝しないなどを、命題のように崇め、都合の悪い現象は取り上げず、説明がつかなくなると、なにか部分的に新しい説を取り入れるという感じだ。

特に、分厚い本を何冊も書いているイギリスの方の本を読むとこのあたりのごご都合性がよくわかる。

進化論に興味を持った方は、

進化論の最前線 池田清彦

が推薦だ。ここから始めると良い。

 

筆者としては、

進化は、ウィルスや細菌近など、単純とは言えない生物においては、環境に適合しようとして獲得した形質が遺伝することによるものと生殖が主と思える。

まあ、このように考えておいた方が良い面が多々ある。ネオ・・に関わるよりは、このような考えで生活する方が進歩性がある。

 

進化論を紹介しようと気になっていたが、これで役目を果たせような気分だ。ハナハダカンタンナガラ、進化論はこれでオワル。

さて、今日は、いくつかのことをホームページに記録できた。スッした。一日が終わったような気分なので、週末まるまる1日半、精神的にやり遂げた感の中で過ごすことができる。

最近は、書に関わる中で、こんな感じになることが多い。サイワイデアr

 

 

 

 

 

 

 

3/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かって、民芸運動というたぐいのことを唱えて、井戸茶碗や韓国の白磁を紹介する方がいた。日常から離れるために必要なものを区別できていずに紹介するため具合が悪い。祭り性こ気づくのを妨げている。このあたりのところについて、個人的には困った方ととらえている。

井戸茶碗については、祭器としてだいぶ早くから認識できていたものの、李朝の白磁の一部の物については、今に至り、その精神性に気づくことができた。

祭器に使用できる色合いでこれも一つの洗練された文化だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青磁というとこんな感じの色で、どちらかというと、青というよりは緑だ。

 

これは、緑に見えるが、陶磁器でいうところの青だ。粉青という。

 

 

 

下は、白磁、色合いが微妙だが、緑白といった感じだ。僅かながら、青にも見える。清らかな感じする。水そのものにも思えるような色合いだ。

墨をするための水を入れるのに良い。これまでは、青磁あるいは粉青に墨をするための水を入れるものとして使用することを好んできたので、大きな認識の進化だ。

 

 

 

 

 

 

 

2018.03.03

 

 

 

 

ファイルサイズが大きくなることが気になうrだけで、手書きの方が、発展性がありそうだ。

実用の17年目になるのか。それとも飽きて、ホームページの更新が滞るか。

 

 

 

 

写真の掲載は、携帯を使うとお手軽にできる。画像の寸法を変更したり、ファイル容量を圧縮することも可能だ。結果的には、1眼レフのデジカメを使い、Photoshopを使い調整していたことと大きなさはない。ということに最近気づいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

3.3UP!

言志四録の著者である斎藤一斎先生が書画をすることについて述べている。

 

心の、邪さ・正しさ、気の強弱は、書や画において、これを隠すことはできない。このため、、喜怒哀恐、勤勉であるとか怠けているとか、静かであるとか、騒がしいとか、これらもまた書いた文字の形に現れる。

一日の内に、、自ら文字をいくつか書き、繰り返し観れば、

ひとつ、心を省みる助けとなる。

 

 

 

少し、自分なりに、考えてみたところを記す。

 

 

 

今日は、この句が目にとまった。性、気、理について述べているので、おおらく、この句を心で納得するには朱子学と陽明学の知識が必要だ。もちろん、一つ一つ文字は認識できる。

 

知と仁は性、勇は気。これらを配して、三徳とする。

妙なる理がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.3UP!

言志四録、最初は楷書で書いていた。楷書を升目に書くのではなく、フリーハンドで書く場合、この程度の文字間隔で書きやすいものがある

若干、間隔を広げたい気もするが、このあたりは、実践することで自ずと良いところに決まるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02.25UP!

 

2月2日から、古典書法17年目に突入している。

言志四録を、楷書で書き写していたが、書いているうちに、字体が楷行書に落ち着いてきた。

週末は、気づくと結構な分量を書き写している。写すものに合わせて字体を自然に選んでいるようだ。

 

書をする上で、最近の目立った変化は、文字の配置に違和感がなくなったきたことだ。文字の形もを含めて、どちらかというと無意識の行いだ。文字の大きさは、ほぼ使う筆と墨の擦り方によって決まる。丹田あたりのことであるが、気が散逸しない範囲で適度な速度で書き進んでいるような感じだ。

そのうちで良いので、自分なりの文章が自然に表れてくると良いのだが・・とは思う。

他人事のような・・であるものの、筆を使う場合は、頭もそうであるが指先なども書く内容を決める実感があるため、そのような言い方になる。

書に関しては続けることが目標であるため、それに伴い現れてくるところは、自分でも楽しみだ。

そしてそのようになることができることが古典書法から離れていないことの証と考えている。

 

 

 

 

  

少し前

 
 

 

 

2018.01.04UP!

休暇7日目だ。

それにしても時の流れが本当に早い。あっという間だ。今回はこれまでと比べ、ずいぶんと書の取り組み方が違った。時間を惜しむように朝から晩まで顔真卿の臨書をしていたことが懐かしい。

今回は、なんとなく身に着けたものを軽く確認しているのと、表現しているのと半々くらいで、貴重な朝の時間に気楽に書をするという感じだ。

今朝は漢字かな交じり文の練習を少しだけして、散歩に出かけた。まあ、今日は、休みの日としよう。

いい加減と言えばいい加減だが、

4年も5年も前に懸命に取り組んだことが熟成されて指先から自然に出てきていると思えている。継続はしてきた。書というのかこういったことには、時の流れも必要なのだろう。

2年近くになるのか、家では和服をきている。週末は出かけるときもほとんど和服だ。羽織は、自分なりに少し変形したものを作り身に着けている。また、高下駄を履いている。行動が制限されるが、なんとなく具合が良く気にいっている。1年は続けようと思い続けていた。2年に及ぶとは思っていなかった。しかし、昨日の晩は寒く感じた。実際、和服は羽織までにしているので、セータとコートなして外に出るのに近いものがある。ここ半年余り、日常に歩く距離が減っていたためか、なにか寒さへの耐性が下がっている。

今朝も寒い。冷蔵庫の中にいるような感じだ。休みの日としては久しぶりに洋服を着て外出した。温かい恰好をし、履き慣れた靴を履きということで楽で機動的だ。セーター、コートなど動物の毛はなんとも温かい。和服のことを言えば、絹でいかに工夫してもこの温かさには及びない。しかし、寒さへ耐性だけのことではあるが・・・、当初1年は続けようと思っていたが2年程続いた、とか、TPOもあるし、とか・・・・

なにか負けたような気がしないでもない。トホホ

 

 

やはり気楽の気

 

01.03UP!

 

今日は、筆を試した。

しばらく前に購入したものだ。微妙に大きさを変えた中大筆が5本セットになっている点と筆先が丁寧に作られているように見受けられたことから購入したものだ。小さい方から2つ目までは、楷書に使えることを確認済みだ。筆の名前の一部に狼とあるのでイタチ毛だろう。イタチの高級品である純コリンスキー毛の筆と書き比べながらら使ってみた。

さて、総じて、墨持ちが良く、先が効き、力を伝えやすい。筆の大きさに応じて書き心地が変化するのも楽しい。

書き比べに使用した日本のコリンスキー毛の筆は、見かけは毛の量があるのだが、先の方がペラペラという感じだ。力を筆先に伝えるのに努力必要だ。中国のコリンスキー毛の方は、先が丸く、一部の点画であるが形を取りにくい。どの筆であっても、テクニックで同じような形に書くことはできる。しかし、筆と書法技術にあまり意識を向けたくないものだ。自然に書くことができるものが良い。耐久性はわからないが、これはこれで良い筆たちにに思える。その中でも、一番太いものが、書くときにドシッとした手ごたえを感じることができ好ましい。今日は、この筆で、温故知新を書いた。楷行書も書いたが、この筆は楷書に適している。

コリンスキーだ、なんだとあまりこだわらない方がよい。

筆は使用している毛の種類都と共にその作り方によって書き心地が大きく変化する。

この筆たちは使いきったらそれで終わりだ。再度、購入できるところを知らない。ここが書をする上で困るところだ。幸い、小筆については楷書に適した繰り返し購入できる筆を見つけている。これだけでもとても幸運だ。筆選びはパラメータが多い。腕前と墨、硯、紙の選択など文房具の使いこなしも影響する。墨の使い方は特に難しい。これは、腕前と共に徐々にしか上達しない。後戻りをすることも多い。とにかく小筆だけにしても楷書を書く筆が決まったことについてはやり遂げた感がある。道具の使い方でいつくつかの発見もしている。

 

 

 

 

0102UP!

 

 

文房具は、韓国の物が好みだ。水滴、筆置き、筆洗、墨壺など、好みのものをいくつかもっている。つい見てしまう。人が作るものはこうありたい。

硯そして筆は、実用性から中国のものを使用することが多い。ただ、硯も見惚れてしまう使いやすいものを探している。

筆は目的で使い分ける。今朝、漢詩を書くのならこの筆が良いのではないかと思い浮んだ。そして試してみた。下の方に掲載したのがそれ。宋詩を書いた。これはこれで一つのなんといえばよいのか、・・ まあ、一つである。

こういった書は自運と考えている。自運は実践である。臨書を通して身に着けたところがそこかしこに現れる。最近は、自運であってもある程度書くと満足感というか達成感がある。こうなると、午前中であろうが、その時点で、一日を充実して終えたような気持ちがする。

後の時間はというと、穏やかな気持ちの中、時間がゆったりと流れてゆく。

 

   

 
 

 

宋詩から
 

 

宋詩から

 

 

01.01UP!

 

 

初詣、嵐山法輪寺電電宮をお参りしてきた。お参りは、ただ、心の中で、ありがとうを唱えるのだが、神社は比較的馴染んでいる。

仕事のことであるが、一年程前あることで発見をした結果、今、日の出的な状態だ。関係する人も増えつつある。まさに、これからという感じになっている。

昨日のNHK紅白歌合戦は面白かった。全体的な企画、個々の企画、会場の雰囲気、どれをとっても、一流の人たちが力の限り工夫を凝らしているように見受けられた。アーティストの方も、この日のためにという感じで準備をして来ていた。たくさん感動した。そして、気合いは重要だなとあらためて思った。

ひとつ、郷ひろみの体の動作の機敏さにはびっくりした。少しだけ歳上の方だが、今、あんなに早く首を動かしたら、筋を痛めそうだ。が、繰り返し動作をしていた。

仕事は芸能ではなく電気電子の技術系だ。体力は衰え継続的に長時間働く能力は落ちたが、勘と経験がそれを補ってあまりある。どうも、ひらめき的なものは、現状維持どころか今もどんどん進み、総合的には、今が一番、効率良く創造的に仕事ができる。ピークという感じもしない。

ついでに書道のことで言えば、五感も衰えているものもあるが、触覚というのか皮膚感覚と言えば良いのか、それについては特に衰えを感じない。

紙から筆を通して帰ってくる力を微妙なところまで感じ、無意識的に思うように筆を動かすことができる。皮膚感覚そして指先の運動神経もあるが、勘と経験で予測をしつつ筆を動かしていることからそのように感じるのかもしれない。いわば連続的にひらめいている状態で、手本を見ないで臨書もできる。

ん?

これは何日もかけて練習した結果として偶然書くことができたレベルのものは今では普通に書くことができるくらいの意味だ。

さて、NHK紅白を見たことで触発され、今日、気合いの「気」をさっと書いてみた。 右がそう。 ・・・ 

が、気合いというよりは気楽の「気」になった。今日はこのくらいで・・・

   
 
 

 

12.30UP!

 

ホームページの更新が大分と空いた。書は続いている。そして、特に小筆だが、だいぶ書き慣れてきた。気分を変えるためもあって、ホームページをカフェでメンテしてみる。

さて、タブレットPCを購入した。

OSWindows10ちなみにAndoroidマシーンとしても使用できる。アプリにはWordExcelさらにはPowerPointも入っている。なにより、軽い。画面サイズは8インチ。文章を考えながら書くのにこれで十分だ。マウスとキーボードはお気に入りのものがある。ホームページ作成ソフトも使いなれたものをインストールした。タブレットPCなの、画面の拡大縮小はタッチ操作だ。一昨日から使っているが、今回の目的にこれ以上のものはないと思える。価格は一万円と少し。コストパフォーマンス100万倍という感じだ。

パソコンは目的を考えると8インチで十分、あとは重さが数十g程度になればよい。これは時機にできてくるだろう。今回のものは300g。

文章を入力するのに集中したい。マウスとキーボードはお気に入りのものがある。これに替わるものは難しそうだ。使い慣れる必要もある。

マウスは使い勝手を考えるとある程度の重さが必要で、キーボードはある程度の大きさが必要となる。我が目的からすると、道具として、今の状態でも行きついた感がある。さて、なにかやる気がでてくる。おそらくしばらくの間。

 

 

 

 

16年目

日々雑感H29.09.10

 

 

 

 

 

     

 

  

時は流れて

 

 

 

 

4年目から15年目

11年目:書道

 

 

 

 

  

はじまり

 

 

古典典書法はじめの三年

李柏尺牘稿と顔真卿祭姪文稿

はじめに

楷書「一」

藤原道長

始平公造像記

自己紹介

文人画(墨竹)

小野道風

懐仁集字聖教序

 

西洋絵画

小野道風屏風土台

臨書集

古典書法の本質

散策

藤原行成

日々雑感

 

臨書

空海 

 

 

 

 

 


 

今から97年前、

分断され点在していた古典書法

師事することでそれらを習いまとめ上げる文人が生まれた

古典的な文化を崩壊させた文化大革命時、その文人李卿雲は野に降り

書法をわが師が引継いだ

文人がこの世を去って、28年

表舞台から清朝中期以降は消え失せた古典書法

王羲之と言う名で象徴的に語られる用筆の妙

歴史ある中国文化の神髄中の神髄

用筆はそのまた神髄

縁ありそれに触れ、驚いた

明治以降、西洋文化へと進んできた日本

今は、意図的と思えるほど中国文化に無関心である。

そして、イメージの西洋いやただただ便利なものことへと進む

日本が、中国文化に大きく影響を受けていることなど気にすることもない

悪いことに、普通に目にするものは、作業は細かい芸術性のない中国の工芸品

しかし、そこから一歩進み、目にした、善い物としか形容できない書の文化

歴史の中、日本人は中国から何を学び何を学ぶことがなかったかを考える

かすれにじみ、線のおもしろさを追求し、自由に書くことが流行である

しかし、気づくことなく、通り過ぎてきたとても善いものがある

中国でさえ、その真の価値に気づいていない

それは創造の泉、わきだすものは

うまきさけ

2002年記


 

 


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